あまがさの日記のようなもの

書きたい時に書く日記のようなブログです。

ときめくもの

今晩は。卒業論文の提出日が近づき現実逃避がしたくて堪らない今日この頃です。

今日は早めに寝て、起きたら頑張るぞと決意する朝の5時半。早めになんて寝れるわけが無いのであった。締切目前ぞ。

今回は近状報告を兼ねつつ、私のお気に入りのモノについて話します。かなりざっくりとした括りなのは話したいことが幾つかあるからです。

まずは1つ目。銀の指輪をお手入れしました。

今回は指輪だけお手入れをしたのですが、無事ぴかぴかになりました。見れば見るほど最高のデザイン。職人さん愛してるよ。

私は装飾品が好きなのですが、その中でも特に指輪が好きです。

ネックレスやイヤリング等と違い、つけていることをいつでも認識することが出来るのが良いです。同じ理由で時計も好きです。

そして長く使えるものが好きなので、銀の装飾品を愛用しています。

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この指輪は一年半前に行った地中海に浮かぶ島国、マルタ共和国の首都バレッタにある銀細工屋さんで購入したピンキーリングです。

マルタは本当に良い国でした。また行きたいなぁ…マルタ旅行の話もいつかしたいです。

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ピンキーリングは細めのデザインが多い中、このデザイン!一目惚れして買いましたが今でも見る度に最高だなとしみじみしています。レースのようで繊細な装飾がたまりません。

因みに同じ店でネックレスを二つほど購入しています。そちらもお気に入りですが今回は略。

2つ目。自室の本棚上スペースを模様替えしました。

悩みに悩んで配置したのですが好みすぎます。

机の反対側に本棚を置いているのですが振り向くと最高の空間。ずっとここにいたい…。

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ソ連時代の地球儀、英国製ボトルシップ、アンティークの本、ウィリアム・モリスのテーブルクロス…堪りません。胸の高鳴りが抑えられない。

3つ目。革製品のお手入れをしました。

銀製品よりもマメにお手入れをしなければいけないのが革製品です。

少しバタバタしていた影響でお手入れ期間が空いてしまったなと反省しつつ、心を込めてオイルを塗りました。

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↑私の愛してやまないHERZ(ヘルツ)のショルダーバッグ、ハンドバッグ、手帳カバー、財布、大好きなharuta(ハルタ)のモンクシューズ、ストラップシューズ、ローファーです。

経年変化も楽しめますし、使い心地も良いですよ。気になる方はぜひ!

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嗚呼、卒業論文。現在51枚。最低50枚なので一応枚数的には越えたのですが、最終章が未だゼロ文字!締切まで48時間を切り震えが止まりません。

卒業してみせる。絶対卒業するんだ。こんなブログなんて書いている暇はないんだ。やる気が尽きたなら寝ろ!

ということで寝ます。起きたら最終章を書き上げて先生に送るんだ。最後の添削をしてもらって提出しよう。

がんばれ私。頑張れ同士たち。良い夢を見よう。おやすみなさい。

私と杜甫の出会い

卒業論文の序章「研究理由」を書こうとしたらブログっぽくなってしまい没になったので供養。

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私が始めて杜甫の詩に触れたのは大学受験対策の授業だった。

私は夏目漱石の『夢十夜』に惚れて日本文学科を志した。当時、漢文学に対する興味はなく点数を稼ぐための暗記科目だと嫌々ながらも取り組んでいたことを思い出す。

大学受験を終え、夢にまで見た文学部日本文学科の生徒になった私は必修科目に漢文学入門があることに絶望した。

嫌々ながらも出席した漢文学入門の授業で私は杜甫の「月夜」という詩に出会う。

何も感じなかったはずの漢文に何故か胸が高鳴ったのだ。その後直ぐに「春夜に雨を喜ぶ」という詩に出会い、雷に打たれたような感覚が走った。私の人生の中でこれ程までに美しいと感じた詩は無かった。

「漢文は詰まらない」というイメージが壊された瞬間であった。

それからというもの漢文の授業を積極的に取るようになり、ゼミは迷うことなく漢文学を選択した。

杜甫が私の人生を狂わせたと言っても過言ではない。夏目漱石はどこに行ってしまったんだ!

ダメだ!書くのは楽しいけどこんなの研究理由でもなんでもないよ!もっと真面目に書きなさい!没!

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↑指ハートを学びました。

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↑うえたイヌ(???)

 

楽な生き方

色々と思うことがあるので書きます。

楽な生き方について話そうと思います。具体的には自分を他人にどう見せるか、どう思わせるかが重要なんじゃないか?という話です。

私の悩みと友人の話。どうぞ。

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サムネはいつか行った猫カフェの写真。おやつに群がるねこちゃんと私。

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世渡り下手な友人、すごく怒られやすいし誤解もされやすいんです。
でもどうして自分が怒られるか、舐められるか全く理解していないから自分だけどうして…と嘆いていて事実を伝えるべきなのかどうか悩みに悩んで、少し生きやすくなるかもしれないコツを伝えたのだけど良くなかったかもしれないと今私も悩んでいます。

自分だけ何故か不利な目に会うと嘆いているんです。本当に難しい。

客観的に見たら違う事でも、本人にとって正しければ正しいから、私がそれを歪めるのは良くないのかなと思ったり思わなかったり。

ただ言わないと一生気づかず世の中を恨んで生きることになるんだろうなぁとも思うので、はっきり伝えるべきか迷ってしまうんです。

友人は友人自身が強く当られたり、怒られたりする理由に「失敗してしまったから」と言うのですが多分違うんですよね。

人は失敗する生き物だから多少は仕方ないし、失敗したことに対してはあまり強く怒られないかなと。まだ学生ですしね。私たちはまだ責任を負わされていない。

友人と同じ場面に私が遭遇しても、同じ結果を出してたとしても私は怒られないだろうし、後を引かないだろうと思うんです。

怒られるか否か、強く当られるか否かは、失敗したあとの対応の仕方や築いてきた人間関係が問題なのでは無いかなぁと思うんです。
友人の話を聞きながら、私が同じ状態になっても自分の出した結果に対してその判断をしないし、その回答をしないし、そうあるべきではないからそうしないとぼんやりと思い、だから浮かないし狙い撃ちされないんだなぁと思ったんです。

理由をつけるのは簡単だけど、原因はそこではないんだよと伝えたいと思いながら良くないかなと思い悩む夜。

周りの人は何もせず好かれた訳では無いんです。怒られない訳では無いんです。

見えないところで怒られないための努力をしている、が正しい。でもそれが見えない限りは「同じミスをしたのになぜ自分だけ怒られるの?」と思い続けることになる。

実はみんなはこうしているんですよ、と言わない限りは置いてきぼりにされてしまう。

その努力をしなくても周りが公平な人だけならば失敗をした結果だけを見て叱り、感情で対応に差をつけないので問題ないのかもしれないけれど人間はそんなに単純ではない。

同じミスを同時に二人がしてしまった場合、明らかに反省している方が注意も少なく済むでしょう。普段から親しく思っている人の方が怒られにくいでしょう。そういうことだと思うんです。

例えば何かミスをしてしまった時、ミスをしてしまった可能性がある時には直ぐに確認して、状況を報告する。

報告する時には相手の時間を使ってしまうのだからお詫びをして、先に結論を述べる。

「お忙しいところすみません、○○なのですが失敗してしまいました。申し訳ありません。」

そして、自分はこういう対応を取ろうと考えているがそれが正しいかどうかの指示を仰ぐ。

「○○の対処として△△をしようと考えています。〜さんの意見を伺いたいです。」

指摘、指導をされたら、目を見てはっきり謝罪をし、頭を下げ、復唱する、メモを取る等聞いている様子を印象付ける。

話が終わったら、時間を取ってくれた事に感謝した上でもう一度謝り急いで持ち場に戻る。

この流れを徹底すれば大抵の場合はめんどくさい事になりません。

特に重要なのは出来るだけ早く報告することと相手の目を見て話すことです。

と、色々と言いたいことはあるのですが…私がそれを言ってしまうと折角の彼女の良さが潰れてしまうのではないかと思いとてもとてもとても悩ましいのです。

私は友人のことを大切に思っているし、これからも仲良くしていたいと思っています。すごく魅力のある人だと思うんです。

私と本当に違う意識の持ち方をする人だから面白いし、染まって欲しくないと思う。

私は人と違うことはひとつの能力だと思っていて、友人はすごく力のある人だと思っています。友人の角を研磨して人と同じにしてなんの意味がある?尖っていることは才能だろう。

でも私が客観的な意見を言うと、とても素直な人だから染められてしまって、本人の独自の価値観を歪めてしまうかもしれないと不安なんです。

そして、彼女の中で敵だった人が実は敵ではなかったと分かったら辛いかもしれない。

友人は世界に敵対して生きている。憎しみや恨みを力に変えて生きているんです。

私はそんな友人の生き方も肯定しているし矯正する気は一切ないんです。幸せの形はそれぞれですしね。

メリバはひとつの幸せの形だと思っているからそれでいいんじゃないか?と思うんです。
今まで周りにいた誰も友人に「生きやすさ」を説かなかったということはそういうことなのでは?とも思うのです。

それとも周りは友人の世界に気付かなかったのでしょうか。

私は人より他人の価値観や考え方に興味があるという自覚があるけれど、鈍感な人でも気付くくらい、友人は尖っていると思うんですよね。

あんなに敵対して生きていくのは辛かろうと思うけど、その恨みを糧に生きていけるのだから強かだとも思う。ハリネズミ

私が友人を分析するなら、他人に期待しすぎているように思います。あと、他人は自分のことを見ていると誤解しているんだろうなとも思います。

他人は想像以上に自分のことを分かっていないので、口や態度に出さねば伝わらないってことを知らないのでしょう。まだ生まれて20年くらいしか経ってないし仕方ないのかもしれない。(私も同い年だけど)

表面上のものしか他人からは見えないんだから、内面と外面を一致させなければすれ違いが起きるのは当然なんですよね。

嘘が付けないのなら、外面を内面に寄せる努力をしないと。
他人から見て内面の感情と外面の感情が一致するように過ごさないと、誤解されるだけなんです。

ミスをして怒られた。内心反省している。でも反省していると周りに認知されなければ意味が無いのです。
失敗した後、この人は反省したんだな、と思われなければ失望される。
友人が内面、深く反省しているのは確かだけど、反省していることを伝えられていなくて周りより強く当られてしまう。
でもそれに気づかない。そして周りが伝える努力をしていることに気づいていない。

人の努力って周りから見て判断できなくて、だからこそ自分の位置を見誤ってしまったり、嫉妬したり恨んだりしてしまうのかなと思うんです。

私は自分の話をするようにしているけど、それは私の内面と外面を一致させる為でもあります。
私はこんな人間です!と伝えれば嫌な人は離れられるし、興味を持った人は近付いてくる。
他人が私のガワだけを見て中身を理解してくれるなんて思っていないから、自分から言葉を砕いて「自分はこんな人です」と言い続けます。

それを怠れば、私の可能な範囲を越えて期待したり夢を押し付けてくる人が寄ってくるし、その期待に応えられないと怒られたりするわけです。
等身大、とまではいかなくてもある程度までは見せた方が期待を裏切らなくて済むから人間関係は上手くいくと思うんです。

減点式よりも加点式の方が上手くいく。無理やり加点式の人間関係にするために必要な事だと思っています。

内面と外面の一致が難しいのかなぁ。よく見せよう、馴染もうとすればするほど乖離しているように見える。

過激な思想や価値観はある程度抑えた方が上手くいくけれど根底にあるものを偽るのは自分の首を絞めるだけだよとも伝えたい。

「嫌われるのが怖い」と言うけれど、全員に好かれる人なんて存在しないから、嫌われない努力をするのではなくて、自分を好いてくれる人を探す努力をした方が良いと思うのだけれど…それも伝えると説教じみてしまうかな。

自分の内面と外面一致させるというのは、本当の気持ちと一致させるという意味もあるけれど…それ以上に相手に与えたい印象を自分が表現することが重要だと思う。

例えば、楽しい話をする時は心が楽しくなかろうがなんだろうが、相手に楽しさを伝えるように「楽しそうに」「明るく」「笑顔で」話すべきだし、逆もそう。

態度と声色と話の内容を一致させる。実際の感情が平坦でも周りからは分からないんだし。

コミュニケーションとはそういうものでは無いのかな?と思うのだけれど、友人がそうしないということはそう生きてこなかったということなんだろうかと考えて、やっぱり言わない方がいいなと悩むんです。

苦労も沢山あったろうけれど、コミュニケーションに関して、自分から歩み寄る必要がない世界で生きてきたのに、私が何か言うのは良くないよなと思ってしまう。

私はお互いに歩み寄らないとダメな世界しか知らないのです。ツーカーの関係だとしても、いくら親しい友人だとしても言葉を尽くさねばすれ違うと思っているので常日頃から気をつけて生きているんです。

それをしなくても良いと思える場所で生きてきたというのなら、その美しい環境やそこで生きてきた綺麗な精神を汚すようなことはしたくない。

でも社会は汚いので歩み寄れない人は努力不足、無能、と切り捨てられてしまう。だから友人は人より強く当たられて、指摘されるのだろう。そして怒られた時に反省していると怒った側から認知されていないからより一層の強く怒られるのだろう。

私には原因がわかっているからこそ、友人に伝えるかずっとずっと迷っているのです。毎日、目を見てはっきり挨拶をするだけで、なにか指摘を受けた時にハキハキお礼を伝え頭を下げるだけで、目上の人が来た時は立ち上がって礼儀を尽くすだけで、話を聞く時に直立不動で目を合わせ軽く頷く、たったそれだけの事で生きるのが楽になるんです。

心の中ではこんな奴大嫌いだ!と思っていても、にこにこと笑いながら挨拶をしていれば他人は誤解するってことを知ったらとても楽になる。

でもそれはもしかしたら自分で気づくべきなのかもしれないし、誰かに言われて変わるものでもないのかもしれないし、その変化が友人の良いところを削ってしまう可能性もある。

人って難しいなぁ。

私は色々あって嫌う人には嫌わせておけと思うようになったし、私が私のことを好きだから、私のことを好きじゃない人は見る目がないと思うし、私を嫌いな人と無理に仲良くなる気がないです。

そして自分に自信がある人に文句をつける人は少ないので良い循環が生まれています。

私の周りには自分のことが好きな人が集まるし、自分のことを大切にできる人は周りの人も大切にできるので。何か問題があれば指摘してくれる良い環境に恵まれていると思っています。居心地が良いです。

今話している友人はネガティブで自己肯定感が低いから私の友人としてはとても異質なのだけれど、だからこそ本当に不思議で面白いんです。

友人が大好きだからこそ、その生き方を肯定している。でもそれは茨の道だからもう少し楽をしても良いんじゃない?と思う。でもそれを私が言うのは違うよな、とも思う。

正直にいえば共感できないところも多いです。でも理解したいと思い言葉を尽くしています。それが友人からどう見られているのかは分からないけれど歩み寄ることこそが距離を縮めると思っているんです。

私は自分に欠陥があることを理解しています。皆が当たり前に共感できる、共有できる価値観を持っていない。

なので世の中で共感できないことが沢山あって、でも共感できない時は共感できない事を正直に伝えるようにしています。

「私は貴方の考えに共感できないけれど、あなたのことを理解したいからもっと詳しく教えて欲しい」と言えば好感度ってそんなに下がらないと思うんだけど…どうですかね、難しいですかね。

みんなに好かれるために分からないことにも「分かる」と言い続けるのはストレスだし、相手からの信頼を裏切る行為にも繋がると思うからしない。

でもそれは私の生き方であって、友人に押し付けるものでは無い。

茨の道を進む友人に幸あれ。友人と同じ境遇にある人にも幸あれ。

もっと楽に生きれば良いのにと思うけど、多分上手くいかないのだろうな。

ただ毎日自分から挨拶するだけ、ただ様子と話の内容を一致させるだけ、目線を合わせて話を聞くだけ、真っ直ぐ立つだけ…そう私は思うけどそうではない人も沢山いるのであろう。

私が暗記が苦手なように、人それぞれ苦手なものがありますもんね。

このブログが楽な生き方に気づいていなかった人、出来るけれどやっていなかった人の目に留まり少しでも生きるのが楽になってくれたら嬉しいです。

この私の悩みが解決する日は来るのでしょうか。多分私は友人に何も言わないけれど、言うのが優しさなら酷い人になってしまうからそれも困ったなと思っています。

みなそれぞれの適したやり方で、生きるのが楽になりますように。

長々と失礼しました。今回はここまでにします。お読み頂きありがとうございました🧸

特別お題「10の質問」

今晩は。寒い日が続きますね。革の手袋を着けて気分は紳士な今日この頃です。

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さて今回は、はてなブログ10周年ということで特別なお題が用意されていることに気づいたので挑戦してみます。

それではどうぞ!

はてなブログ10周年特別お題「はてなブロガーに10の質問

ブログ名もしくはハンドルネームの由来は?

ブログ名の由来はそのままですね。日記と言うには書かなさすぎるので日記の後に「ようなもの」をつけました。

ハンドルネームの由来は、夏の雨の夜に傘をささずに帰宅するのが好きだからです。

はてなブログを始めたきっかけは?

ブログに興味があったので、友人に始めやすいブログということで「はてなブログ」を教えてもらい始めました。

元々日記のようなものをつけていた(前回のブログ参照)ので電子化したという感じです。

自分で書いたお気に入りの1記事はある?あるならどんな記事?

どれでしょうね…お気に入りは特にないので決めるのは難しいです。

ただ、ギルドマスター関係のものと、書店員関係のものは同志に読んでもらいたいなぁと思っています。

ブログを書きたくなるのはどんなとき?

何かがあった時ですね。思い立った時に書いてます。あとはお題が面白かった時。

下書きに保存された記事は何記事? あるならどんなテーマの記事?

現在、下書きには六記事あります。公開するには問題がありそうなものや過去のレポートを貼り付けたものが主です。

自分の記事を読み返すことはある?

高頻度で読み返しています。日記のようなものなので、この日はこう思っていたんだなぁとしみじみしています。

好きなはてなブロガーは?

一人いたのですがブログを消してしまわれて…残念ながら今はいません。

基本的に他の人のブログを読むことがありません。

はてなブログに一言メッセージを伝えるなら?

益々のご発展をお祈り申し上げます。 

10年前は何してた?

小学生だったので、絵を描いて本を読んで習い事に行って友達と遊んで…忙しい日々を過ごしていました。

この10年を一言でまとめると?

学生時代

日記のようなもの

今晩は。お気に入りの革の手袋をクローゼットから取り出し、紳士的な装いの準備は万端な今日この頃です。

さて、今回は今週のお題 「読書の秋」に挑戦します。

本は読みまくっているからなぁ…何にしようか…と思ったら…良いところに日記が。

日記を読むのも読書です(断言)

という事で、今日は幼いころからずっと私が書いていた日記のようなものについて話そうかなと思いました。

本の紹介は以前にもしていますし、これからもする予定なので今回はしません!小説紹介をお求めの方はここでブラウザバックをお願いします。

今回話す「日記のようなもの」はただの日記ではありません。

悲しいこと、辛いことがあったときにのみ書く、私にとって唯一本音を書きだせる場所だったものです。

私の心の叫びであり、記録であり、当時の私が過ごしていた世界の狭さを理解させられるものです。

苦手な人も多いかと思うので気分が悪くなったら、直ぐに読むのをやめてくださいね。

日記には楽しいことは一切かかれていません。書きなぐり、強い感情で歪み、涙で滲んだ文字しかありません。刃を突き立て切り刻まれていたり、破かれているページばかりで表紙以外はボロボロです。

そして一冊ではありません。何冊にもわたりこんな大人にはなるまい、死にたい、この場から逃げたい、早く楽になりたい、私が死ぬときはこれを抱いて眠るんだ、と書き連ねています。

それらを書かなくなった今でも読み返し、いつまでも忘れないようにしているんです。十年前の私を裏切らない人間であり続けたい。そう思いこの歳まで生きてきました。

「あまがさの日記のようなもの」は他人に読まれることを前提にしていますが、そうではないので少し刺激が強いかもしれません。

今日、目に止まったのはまた思い出さなきゃいけない時期が来たからなのでしょうね。

一人で見て満足することも出来るのですが…誰かに、いつかの私が思っていたことを共有したいのでここに載せます。

狭い世界を生きてきた全ての元子供に、自分はなぜこんなつらい思いをしなければならないんだと絶望した人に、死ぬ勇気がないのが情けないと自分を責めたことがある人に宛てて書きます。

「こんな大人にはなるまい」と思っていた大人にならないで欲しい。今なっていないか見つめなおしてほしい。

幼いころの自分に今は幸せだと、その苦痛から逃れられると、抵抗できるだけの存在になったと誇れるように生きていてほしい。そしてここまで生きられなかったすべての人への哀悼の意を捧げます。

先にいくつか注意事項を書いておきます。

  • 親を悪く言うなという意見があることも知っていますが、虐待で死んだ子供の墓の前で同じことを言える方だけコメントしてください。
  • 世界に幸せな家庭しかないと信じたい人はここで読むのをやめてください。
  • 自分の苦しみと比較して感情が荒立つ人は読むのをやめてください。

ご了承いただけた方のみお進みください。

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関係の無い画像でワンクッション。

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数頁だけ日記を公開。さすがにそのままだと気持ち悪いと思う方も多いと思うので少しぼかして貼ります。

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文字が太くなっているのは全部涙による滲みです。味がありますね。

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滲んでるのが伝わりやすいかなと思って、別ページを拡大撮影したものの…普通に気持ちが悪い。

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これは油性ボールペンで書いてた時のやつ。書いた後に彫刻刀でノートをグサグサと刺していたので彫刻刀の跡も写っています。思い出ですね。

こんな感じの内容の日記が数冊あります。悲しい時に書く用なのでページをめくる度にこんなことあったなぁと悲しい出来事が蘇り、よく頑張ったなぁと自分を褒めることができます。

悲しいことが起きる→嫌なことを書出す→読みながら泣く→ノートを滅多刺しにする→仕舞うの流れです。

耐えられない環境にいる方にはおすすめのストレス発散方法です。

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日記を見ながら思うことをつらつら書きますが、見るに堪えない可能性があるので読まなくて良いです。

親が私の世界の頂点に君臨していて、親の庇護のもとでしか生きられなかった。親の意見が絶対で、感情は優先されるものではなかった。

約束とは、いつの間にか押し付けられた上に強要される逃れられないものだった。しかし親は破っても良く、理不尽で上から課されるものだった。

心配をかけさせることは悪だった。何か少しでも心配させることがあると怒られた。

家では常に笑顔で居なければならなかった。疲れた様子を見せると馬鹿にされたし怒られた。

意見は押し付けられるもので発するものではなかった。発言は許されなかったし親のミスは許さねばならなかった。

親に不満を持ってはいけなかった。少しでも顔に出れば怒鳴られた。

二か月に一度帰ってくる血縁者を愛さねばならなかった。彼に気に入られなければ人権がなかった。

私と何も向き合わず、何も知らないにも関わらず知っているふりをして怒鳴ってきたがそれを受け入れなければならなかった。

普段は酒に溺れ、ヒステリックに当たり散らす悪魔と二人きりで生活せねばならなかった。元食べ物だった炭、床に落ちたカレー、残すことは許されず床につくばり夕食を取ったこともあった。

酒は人の本性を現すものだと信じたくなかった。酒が本心を引き出すものならば私は愛されていないことを認めねばならなかった。

親に生かされているのに嫌われたら死ぬしかないと思っていた。だから嫌われるわけにはいかなかった。

逃げられなかった。誰も助けてはくれなかった。せめてもの抵抗に遠回りをして家に帰った。

酒を飲まねば穏やかな親だった。酒を飲まないでくれと懇願したが受け入れられなかった。

12歳の夏、親が朝まで帰らぬ日があった。学校帰りに鍵もなく、飲まず食わずで朝の三時まで家の前でずっと待っていた。

酒を飲み、暴れた親に床にたたきつけられた。押さえつけられたまま床で眠り、朝目覚めて親に「私のことが嫌いなの」と聞くと「服を買ってあげる」と。

愛していると言われなくてもよかった。洋服で買えると思われたのが悲しかった。

「酒を飲むのを辞めてくれ」と懇願したら「服を買ってあげる」と返された。ただ一言、酒をやめると言ってくれれば救われたのに。

世界は狂っていると思った、悪魔を殺してやろうかと何度も思った。でも悪魔がベットをワインで赤く染め、苦しそうに胃から酒を吐き出しているのを見たとき、死んでほしくないと思った。

意味が分からず混乱した。洗脳は解けない。

風呂場で親が汚したマットレスを泣きながら洗った。ワインの香りが充満した風呂場で自分は幸せにはなれないと確信した。

頼れる人は目の前の酒に狂った悪魔しかいないと。得体のしれない二か月に一度会う怒鳴ってくる存在とは暮らせないと、わかっていた。

今この文章を打っていて涙が止まらない。もう大丈夫になったと思っていたがそんなことはないようで驚いている。

傷ついている実感がない。十年前の私のほうが何十倍も悲しくて悔しくてつらかったので思い出すだけで涙が止まらないことが受け入れられない。

強くなれなかったと認めることはできない、私は成長した。体も大きくなり抵抗するすべを身に着けた。親とは良好な関係を築けている。なのに思い出すだけで前が見えなくなるのはなぜなのか。

毎日死にたいと思っていた。家に帰りたくなかった。空き瓶や空き缶の転がる悪魔のいる家は安心できる場所ではなかった。

優しい母に会えるのは月に何回かだった。その日を心待ちにして、その時が本物でそれ以外は偽物だと信じるしかなかった。

今ならそんなことはないとわかる。当時も本当はわかっていた。でも受け入れたら誰にも求められていないことを理解せざるを得ないから、認めるわけにはいかなかった。

学校や習い事が救いだった。明るく振舞えば笑顔を向けてもらえることが幸せだった。

本に逃げた。登場人物に入り込んで幸せを味わった。主人公になった時、私は世界に肯定されていた。

ネットに逃げた。私ではない誰かになりきって現実から目を背けていた。貧乏ながらも優しい家族に囲まれて暮らしている誰かになって家の様子をみんなに話していた。すべて妄想だったがその話をしている間は幸せだった。

心を壊せたら辛くなくなるのにと思うようになった。何年も悩んでいた。

そしていつからか何も思わなくなった。気づいた時にはそうなっていた。それからというものノートにはあまり書かなくなった。

大人になったのだと思った。誰にも期待しない。見返りも無償の愛も求めない。私自身だけは裏切らないようにしようと思った。

感情の波も穏やかになった。幼いころから喧嘩をしない子だったが、傷ついたり怒ったり落ち込んだりすることはよくあった。気づかれないように声を殺して泣くことが何度もあったはずだった。

しかし嫌だなと思いはすれど心臓に突き刺さるような痛みを感じなくなった。涙が出てもなぜ流れているのか感覚的にわからなくなり、辛いことがわからなくなった。

自分では気づかなくなったがストレスが体に出るようになった。蕁麻疹や白髪が生えてようやく何か嫌なことがあったんだと気づき、原因を探し対処する。

自分に起きたことを自分事として受け取れなくなり、常に第三者目線で見ているような感覚に陥るようになった。強くなったわけではないのだと思う。傷ついても気づかなくなっただけ。

いじめられていた時も親には頼らなかったし、正直いじめよりも家での生活のほうが辛かった。救いの手など差し伸べられなかった。

今の私は幸せである。家族仲は良く、友人も多く、学校もアルバイトも楽しい。

でも、定期的に思い出さなければならない。壊れてこうなったことを理解しなければ失敗してしまうかもしれない。

酒が人の本音を零させるなら私は、誘われた時以外は飲まない。人前で酔うことはしない。

意見を押し付ける大人にはなるまいと思っていたから今までもこれからも「自分はこう思う」という形を何があっても取り続ける。

私は愛されない。だからこそ私だけは私を好きでいたい。世界中に嫌われても不要だと言われても、私だけは私の味方でいたい。

私には価値があると自分に言い聞かせて何とか生きてきた。きっとこれからもそうだろう。

他者からの評価に重きを置いたりしない。私は私を愛する私に認められる私でありたい。そう生きれないならば価値がない。

私を歪めたものを特定することはできないが、壊したものは間違いなく親だろうと思うし、きっと間違ってはいないんだろうな。

それでも私は恵まれているのだろうと思う。それも忘れてはいけない。私は悲劇のヒロインではない。

何度も海外旅行に連れて行ってもらった。学費も生活費もすべて親に払ってもらっている。お小遣いも貰っているし、金銭的に苦労したことがない。酷く殴られたこともないし、育児放棄というわけでもなかったのだと思う。

ただ、幸せな穏やかな家族というには歪で、私の安心はここにはなかった。

両親と過ごしているここ数年は酒に狂う親にもほぼあっていないし、今そうなっても家を出ればよいだけだ。私の世界は広がった。

家がこんなに穏やかな場所になるなんてあの時からは想像もつかない。でもこの嘘のような日々に惑わされて忘れてはいけない。

苦しんだ日々を乗り越えて今がある。悩んだ過去の私の叫びを無視してはいけない。

私の苦しみを無かったことには出来ない。だから偶に「日記のようなもの」を読み返しては、幼い頃の私を慰めている。

よく書いた。お陰でそうはなるまいと何度も自分に言い聞かせられる。

私は今、幸せである。何度も言うが家族仲は良好で不満もない。

だから忘れたくなって、忘れそうになって、見たくないものから目をそらす都合の良い大人になりそうになってしまう。

人間の脳は嫌なことを忘れるようにできているのかもしれない。でも忘れてはならないから何度も繰り返し思い出して、壊れたはずの心が悲鳴をあげる。いつの間にか前が見えなくなっている。

これはいつかどうにかなるのだろうか。

親が子に酷いことをする作品が見れない。心臓に氷が刺さったような心臓を握り潰されるような痛みに襲われてしまう。映画も小説もゲームも。親が敵の作品を見ると怖くて怖くて、目と耳を塞いで蹲ってしまう。

克服するのは完全に忘れた時なのだろうな。覚えていて許すことはきっとないから。

私は自分が親になる姿を想像できない。恐ろしくてしたくない。親を悪魔と認識したあの日に私は親にはならないと決めたのである。

世の中には素敵な尊敬できる親が沢山いるのだろう。私の親も誰かから見れば良い親なのかもしれない。殴られないだけマシだろうと思う人もいるのかもしれない。

でも幼い頃の私が傷つき、壊れたことは間違いなく、今、親と良好な関係が築けて居たとて一生忘れることは無いのである。

親と子の健全な関係を今更築けたとしても壊れた物は元に戻らない。

酒に溺れる親が出てくる作品を、床に落ちた物を食べさせる大人が出てくる作品を、金で子供の機嫌を取ろうとする大人が出てくる作品を「見ること」すら出来なくなった。

私は読書が好きである。映画もオペラもミュージカルも好きである。

だがトラウマのせいでその大好きな趣味の幅すらも狭められてしまう。

数年前、新しく面白い映画が出たから見に行こうと誘われた。友人は一度見てとても面白かったからもう一度見るのだと嬉しそうにしていて、私も楽しみだと見る直前まで思っていた。

内容は良かった。良かったが酒に溺れる母や母が子供を洗脳するような描写が少しあっただけでスクリーンを見れなくなってしまった。怖くて怖くて、耳を塞いで下を向いて、席から立ち上がることも出来なくなってしまった。

心配したのであろう友人から膝をつつかれ、焦ってスクリーンを見上げるとそのシーンは終わっていて、その後は何とか見ることが出来た。が、心臓が早く大きく鼓動して、手や背中は汗で冷たく、鑑賞後も映画の感想を言える状態ではなかった。

これが一生続くのか。良い作品だったと思う。少し見れないところもあったが全体を通して伏線回収もしっかりとしていて、映像も綺麗で、魅せ方も美しく、完成された作品だったと思う。だがどうしても、あの描写があるだけで「もう二度と」観れなくなってしまった。

私は映画ならアクションとホラー、ミステリーが好きなのだが、ホラー映画を見て思うような「こわい」の次元を遥かに超える何かがある。

私の心臓の柔いところを無理やり握り潰して氷漬けにしたような、真っ直ぐ立って居られなくなるような思いがするんです。

この現象をなんと呼ぶのか私は知らないが、これは間違いなく壊されたからだろうと思う。

助けてくれ。今はこんなに上手くやれているのに偶にそれらに遭遇すると立っていられなくなる。上手くやれる大人になったはずなのに恐怖で動けなくなるのはどうしたら良いのだろうか。

私の呪縛は解けないのかもしれない。

世界中の親に伝えたい。

親である貴方自身が未完成であることを自覚して欲しい。

子供は親の所有物でも機嫌とるための玩具でもない事を理解して欲しい。

一人として独立した感情と考えを持っていること知って欲しい。

貴方の言動が子供にとって一生の傷になることを自覚して欲しい。

人は間違える生き物だから失敗もあるだろうが、その時は誤魔化さず子供に対して「独立した考えを持つ人間に対して」謝罪をして欲しい。

間違えたことを認めて謝罪をすれば、子供も理解しようと歩み寄るだろうし、関係に亀裂も入らなかろう。

当たり前に人に対してしていることを自分の子供に対してもやって欲しい。

その積み重ねが、子供の命と心を救うと思うので、どうかお願いします。

私は今、親と良好な関係を築いているが、それは私が壊れ、成長したからだと思う。

もし私が壊れなかったら上手くいかなかったかもしれない。恨みを抱き続けていたら良い関係を築けなかったと思う。

私は親を恨めなかった。されたことを思い返し続けられなかった。忘れては定期的に思い出す、そうやって生きてきた。忘れられなかったらきっと死んでいた。

親は子育てが下手だ。間違いない。親は私を愛しているのだろうと今ならわかる。

だが、私は愛されて育った自覚がないのだ。いくら愛されていようが、愛されていた自覚がなければ意味が無いのだ。

愛されているのだから許せ、と仮に言われたら私はきっと犯罪者になってしまう。きっと許せないだろう。

だから、誰かの親の皆様、これから親になる皆様には、愛情表現はわかりやすくはっきりと口と態度に出して欲しいとも伝えたい。

独自の表現方法で愛は伝わらないよ。誰から見てもわかるように口と態度に出さなければわからないよ。

そして愛は押し付けるものでは無いから、返ってこなくても怒ってはいけないよ。子供には自由がある。

親になったとしても貴方は未熟だよ。成人したから中身も大人になったとは限らないよ。

自分を見つめ直してくれ、自分と周りを大事にしてくれ。そうすればきっと幸せになれる。

世界中の子供たちに幸あれ。未来に夢を見れる環境であれ。

苦しんだ人が今、幸せに過ごしていることを願います。

これから苦しむ人が少しでも減ることを祈ります。

少し長くなってしまったけれど思いつくことは吐き出せたかな。

気持ちを落ち着けるためにも横になります。何故ここまで書いてしまったのか…後悔しないといいな。

でも書いておくことはとても大切だから。きっと良かったんだろう。今週のお題からズレている気もするが…良かろう。許される!

長々と失礼しました。今回はここまでにします。

良い夢が見れますように。おやすみなさい。

違和感のある言葉達

今晩は。寒い日が続きますね。こんな日はココアが飲みたい…。

さて、今回は七月頭に書いたレポートとも言えない謎文章を皆々様に共有します。

最近この手の投稿が多いのは卒業前にファイルに残るデータを整理しておきたいからです。暫く続くと思いますがご了承ください。

ではどうぞ!

私がこの文章を書こうと考えた理由は、就職活動中に人事の方々とやり取りしているメールの敬語に違和感を覚えたからである。

私の就職活動は先日漸く終わりを迎えたが、この長きに渡った就職活動で送受信したメールの数は二百件を優に超えるだろう。

毎日大量に送られてくるメールを死んだ目で流し読みしながら、違和感というか…表現が難しいのだが、文字が突っかかることが多々あったのである。

勿論、違和感のある言葉の全てが就職活動を通して出会ったという訳では無い。アルバイト先で当たり前に使われている接客用語にも日々違和感を抱いている。

そこで今回は、就職活動中に送られてきた違和感のある文章、就活生が送るメールの正解とされているが違和感のある文章、アルバイト先で接客中に使われている違和感のある言葉について述べる。

始めに、実際に私が就職活動中に触れた違和感のある敬語を二種類挙げる。

一つ目は採用担当者からのメールにあった「書類一式は、後日ご自宅にご郵送させていただきます。」という一文。

二つ目は就職活動生から担当者に宛てて送るメールの参考として乗っていた「面接のお時間を頂きまして、誠にありがたく思います。」という一文である。

私はこれらの文章は無駄に丁寧であり、不必要な語が含まれているように感じた。文法の誤りは無いのかもしれないが気持ちが悪い。

私が採用担当者の場合、一つ目の文章は「書類一式は、後日○○様の自宅に郵送致します。」と書き換える。

そして二つ目の文章は実際に「面接のお時間を頂きありがとうございました。」と書いて送信した。

次に、私の勤めているアルバイト先の書店で聞いたことがある違和感のある言葉を四種類挙げる。

一つ目が、会計後の「レシートを挟まさせて頂きます。」という言葉である。私は「挟まさせて」という言葉を口から発したくない為、「レシートを挟んでのお渡しです。」と言っているが、現在この「挟まさせて頂きます。」を使っているアルバイトは二人ほどいる。

二つ目が、支払いの際に使う「千円からお預かりします。」という言葉である。この「から」は何に掛かっているのか不明で使いたくないので「千円、お預かりします。」と言っている。私以外の店員全員が「〇円から」を使っていることも併せて述べておく。

三つ目が、お客様への確認をする際に使われる「〜でよろしかったでしょうか。」である。「よろしかった」の部分に過去形を使う意図が不明であり違和感がある為、「〜でお間違いないですか?」「〜でよろしいでしょうか?」という言葉を使っている。気付いた時には他の店員が使っている為、かなりの割合で使われていると考えられる。

四つ目は、「お返しの500円になります。」である。「なる」はどのような意味があるのかわからず、誤りだと感じている為、「500円のお返しです。」と私は言っている。しかし、「〜から」と同じく私以外全員が使っている為、接客用語として定着していると考えられる。

敬語について、文化審議会答申(2007.P5)には以下の記述がある。

敬語を用いれば,話し手が意図するか否かにかかわらず, その敬語の表現する人間関係が表現されることになり,逆に,敬語を用いなければ,用いたときとは異なる人間関係が表現されることになるということである。

文化審議会答申からもわかるように、言葉が相手との関係性に大きく影響を齎すものであると認識しているが故に、少しでも丁寧な言葉を使おうとする意識が働き、違和感のある敬語が増えているのではないかと考えた。
又、言葉は使っている間に慣れてしまい、表現に物足りなさを感じるようになることがある。

例を挙げるならば「めっちゃ」「めちゃめちゃ」「めっちゃめちゃ」があるが、始めは「めっちゃ」で足りていた表現も、慣れていくうちに表現として足りていないように感じてしまう。

この現象が敬語にも同じように起き、以前通りの言い回しでは丁寧さを感じられなくなり、言葉を重ねたり回りくどい言い回しになったりするのではないかと考えた。

私は違和感のある言葉が好きではない。しかし文学部での勉強をする中で、言葉が長い歴史の中で変化し続けてきたことを知った。

現在、違和感を覚える言葉達が数年後当たり前に使われ、数十年後には昔は正しかった言葉として残っている可能性を考えると一生、学び続けることが出来る面白い学問であるとも感じている。

好ましいとは思わなくとも、これからも変わりゆく言葉に寛容で在り続けたい。
 
【引用文献】
文化審議会答申(2007)『敬語の指針』p5

【参考文献】
井坂淳一(2016)『ここからはじまる日本語学』ひつじ書房
 

梶井基次郎『泥濘』

今晩は。突然ですが皆様は梶井基次郎をご存知でしょうか?彼は私の大好きな作家のうちの一人です。

「得体の知れない不吉な塊が私の心を終始抑えつけていた」で始まる、彼の代表作は『檸檬』。国語の授業で読んだことがある方も多いのではないでしょうか。

今回話すのは『檸檬』の前身と言われる『泥濘』という作品です。鬱々とした仄暗い感情を美しい文章で表現したこの作品に私は惚れ込んでいます。

そんな『泥濘』についてのレポートを発掘したので貼ろうと思いブログを書き始めた深夜3時…満足したら眠ろう。

多分大学一年生の頃に書いた、拙い、本当につたないものですが…手は加えず当時のまま貼り付けたいと思います。

ご理解頂ける方のみお読み下さい。

梶井基次郎 『泥濘』
「自分」の抱く複雑な感情に共感できるのは何故か

『泥濘』という作品は私にとって、同作家の別作品である『檸檬』と比べても、共感するところの多い作品である。何故、共感できるのかについて考察していきたい。

一つ目に、「自分」は「自分」の状態を消極的な言葉や否定的な言葉など多くの言葉を用いて表現することで想像しやすくなり、読者が自分に当て嵌めて読む事ができるからなのではないかと考えた。

やめた後の状態は果してわるかった。自分はぼんやりしてしまっていた。その不活溌な状態は平常経験するそれ以上にどこか変なところのある状態だった。花が枯れて水が腐ってしまっている花瓶が不愉快で堪たまらなくなっていても始末するのが億劫で手の出ないときがある。見るたびに不愉快が増して行ってもその不愉快がどうしても始末しようという気持に転じて行かないときがある。それは億劫というよりもなにかに魅せられている気持である。自分は自分の不活溌のどこかにそんな匂いを嗅いだ。

この段落では、ぼんやり、不活潑、不愉快、億劫という単語が立て続けて並んでいる。不愉快は三回、不活潑と億劫は二回使われている。この後も中途半端、何をする気にもならない、自分の動かない気持ちなど、受動的でネガティブな言葉が頻出する。

一つの言葉で表現するのではなく、幾つかの似たような言葉を重ねて使うことで状況を想像しやすく、共感できるようにしているのではないかと考えた。

二つ目に、ぼんやりとした「自分」の状況をはっきりと自分自身が理解していないということを曖昧な文末で表しており、読者の認識と「自分」の認識のずれを減らしているからなのではないかと考えた。

自分は話をしているうちに友人の顔が変に遠どおしく感ぜられて来た。また自分の話が自分の思う甲所をちっとも言っていないように思えてきた。相手が何かいつもの友人ではないような気にもなる。相手は自分の少し変なことを感じているに違いないとも思う。不親切ではないがそのことを言うのが彼自身怖おそろしいので言えずにいるのじゃないかなど思う。しかし、自分はどこか変じゃないか? などこちらから聞けない気がした。「そう言えば変だ」など言われる怖ろしさよりも、変じゃないかと自分から言ってしまえば自分で自分の変な所を承認したことになる。承認してしまえばなにもかもおしまいだ。そんな怖ろしさがあったのだった。そんなことを思いながらしかし自分の口は喋っているのだった。

この段落では、感ぜられて来た、思えてきた、気にもなる、違いないとも思う、じゃないかなと思う、気がした、と曖昧な表現を繰り返している。最後には自分の考えと口の動きは一致していないかのような表現をしており、自分の事を自分の事と認識できていないようだと感じた。
ここで読者は「自分」が自分自身についてもよく理解していないことを、「ぼんやり」のような単語としてだけではなく、考え方からも認識することが出来るのではないかと思った。

三つ目に、「自分」の陥っている思想に読者も身を置いたことがあるからなのではないかと考えた。

ちょうどその時分は火事の多い時節であった。習慣で自分はよく近くの野原を散歩する。新しい家の普請が到るところにあった。自分はその辺りに転っている鉋屑かんなくずを見、そして自分があまり注意もせずに煙草の吸殻を捨てるのに気がつき、危いぞと思った。そんなことが頭に残っていたからであろう、近くに二度ほど火事があった、そのたびに漠とした、捕縛されそうな不安に襲われた。「この辺を散歩していたろう」と言われ、「お前の捨てた煙草からだ」と言われたら、なんとも抗弁する余地がないような気がした。また電報配達夫の走っているのを見ると不愉快になった。妄想は自分を弱くみじめにした。愚にもつかないことで本当に弱くみじめになってゆく。そう思うと堪らない気がした。

「自分」にとって嫌な事が立て続いて起き、その事実を上手く割り切ることが出来ず、ぼんやりとした状態が続いてしまってる状態を作者はとても上手く描いていると感じた。文中に用いられる比喩表現や「自分」の妄想からも、不安定な感情がよく読み取れる。
実際に、自分に自信がなくなってしまった時は周りに対しての信頼も失い、全てが敵に見えることがある。読者自身がそのような経験があるからこそ「自分」に共感できるのではないかと考えた。

ゆっくりと始まり、画面が引いていくように終わる『泥濘』という作品は『泥濘』という題に相応しく、全体的に、暗く重たい印象を受ける。

読者にも共感できる内容を、「自分」が他人事のように表現し、その表現が現実を見ていない「自分」の様子を浮き彫りにして違和感を産んでいるのではないかと思った。

その違和感が作品全体を包む、抜け出せないぬかるみのような雰囲気に合っていて、題名を見てから読み始める読者の読み方の方向性を定めているようにも感じられた。

以上のことから、一つの単語で断定せず多くの言葉を使うこと、曖昧な文末で表現すること、自らの体験と重ねやすい状況を書くこと、の三つが「自分」の複雑な感情を読者にとって親しみやすく共感しやすいものにしているのだと考えた。

 

と、数年前の私が書いています。つ、拙い…と恥ずかしくなるのですが、私が成長したからそう感じるのかなと思うと許せなくもないです。

正直レポートとは言えないですね、読書感想文だな笑

今も変わらず『泥濘』は大好きなので。ぜひ皆様にも一度読んで頂きたいです。

重たくのしかかる、上手く扱えない無気力と倦怠感、どうせ上手くいかないと自分を奮い立たせることも出来ない鬱々とした気持ちを上手く表現していて、共感するところが多いのです。

本当におすすめなので是非!このブログを読んで興味を持ってくださる方がいるといいなぁと思います。

『泥濘』は余り知られていない作品なので、泥濘だけを手に入れることは難しいと思います。

もし読みたくなった方が居たら『東京百年物語 2』をお求め下さい。詳細は以下の通りです。

『東京百年物語 2』ISBN:9784003121726

目次↓

Ⅰ 東京の虚実――世界都市への野心
 普請中 …森鷗外
 人面疽 …谷崎潤一郎
 両国・立秋の日・築地の渡し 並序 … 木下杢太郎
 東京の公園 … 田村俊子
 魔 術 …芥川竜之介
 小僧の神様志賀直哉

Ⅱ 東京スナップ――モダニズムの夢
 招魂祭一景 … 川端康成
 公園小品 …室生犀星
 滅びたる東京 …佐藤春夫
 泥 濘 …梶井基次郎
 押絵と旅する男江戸川乱歩

Ⅲ 東京の陰翳――発展と孤立
 雨の降る品川駅 … 中野重治
 水族館 … 堀 辰雄
 M百貨店 … 伊藤 整
 恐ろしい東京 … 夢野久作
 除夜の鐘・正午 …中原中也
 鮨 … 岡本かの子

最高です。面白い作品しか入っていません。一冊でこんなに楽しめるなんて夢のようではないですか。

特にオススメなのは江戸川乱歩の『押絵と旅する男』です。きっと『泥濘』が好きな人は好きかな?世界観が素晴らしい。歪んだ世界へようこそ。

これを書いたら寝ようと思っていたけれど、少しだけ読んでからにしようかな。

珈琲にミルクを入れてカフェオレにしよう。毛布にくるまりながら短編集を少しだけ読もう。眠くなったらそのまま寝てしまおう。きっと良い夜になる。

こんな秋の夜を幸せだと思える感性で良かった。

早速、珈琲をいれに行かねば…今回はここまで。

読んで下さりありがとうございました。

皆様も素敵な秋の夜をお過ごし下さい。