あまがさの日記のようなもの

書きたい時に書く日記のようなブログです。

懐古厨()の戯言

早く寝ようと思ったけど本当に寂しいのでこれだけ書いて寝る。

懐古厨の独り言なので(懐古厨の皆さん以外は)読むのお勧めしません。

同志の皆、ゆっくりしていってね!!!(AA略

私は時代についていけてない。これがほんとに辛い。

好きな物が変わらない性質を自分は持っていて、同じものがずっとずっとずっと好きで飽きることがない。

趣味もそうだし、食べ物や飲み物、好きな漫画やアニメもそう。1度ハマったことは一生好き。私はこの性格、性質を自覚していて、良い点も悪い点も理解している。

歳を重ねるにつれて自分の好きなものが廃れて来てしまった。

同じものがずっと流行り続けることは難しく、当たり前に廃れて、好きな人が周りに居なくなってしまう。

その状態でもずっと好きで居続けるからいつも自分は一人で何かを好きで居続けている。

その状態にも慣れているが、ふと、自分の中で当たり前のことが通じない事実に気付かされ、あまりにもあまりにもあまりにも寂しいと感じてしまった。

私は懐古厨である。全盛期を思い出してはあの頃は楽しかったなと思う。

一緒に楽しんでいた同志はどこに行ってしまったのか。ただただ寂しいと思い、動画を開き寂しさに浸る。

あの頃に一緒に楽しんでいた名も知らぬ同志達はまた別のものにハマっていてそれに熱を上げているのだろう。

自分は新しい沼に移動せずにずっとそこにいる。少しづつ減り、誰も残らず、たまに帰ってくる人がいても「懐かしいね」で終わる。

(私は推しジャンルに浸かって十年以上の気持ち悪いオタクになってしまった。先日アニメの7期が終わったのだが久々に活気を感じることが出来た。ジャンルに人が増えると嬉しい。頼むからここに居続けてくれ。いい沼だよ。)

そして時間が経つにつれ、自分たちの中で当たり前にあった共通認識を持たない世代が出てきた。

それらに触れていないのだから当たり前だが、共通認識を持っていない人間がテリトリーにいることに対しての違和感。

人が増えるのは大歓迎である。勿論喜ばしい。推し方はそれぞれ。私は多様性を認められる人間で在りたいと思っているから両手を広げて喜ぶのだが、心のどこかで寂しいと思ってしまうのだ。

例えばオタクなら「ウッーウッーウマウマ(゚∀゚)」と言われれば両手を頭に当てて腰を振ると私は思っていたがそんなことは無いのだ。

一万年と二千年前から愛しているし、想いは優しいと来れば間違いなくきしめんだし、あんこ入りと言われればパスタライスだと当たり前に思うがそうでは無いのだ。

その時代は終わったし、そんなこと今言うやつはいない。

自分の中の「オタク」が今の時代にあった「オタク」とは違うのである。

ネットスラングが伝わらなくとも、定型文が伝わらなくとも、ぬるぽに反応しなくともオタクなのである。

初心者はまずROMってろは暴言なのだろう。

私の価値観は古い。情けないことに時代に適合出来ていない。

私は「オタクならばジャンルに対しての造形が深く、誰よりも知識を身につけ、ジャンルに金を落とし貢献する存在であるべし」と思ってしまっている。

押し付ける気はサラサラないが自分の中のオタク象は決まっていて、そうではない人にオタクを名乗られた時に仲間意識を感じないのである。

私は間違いなくオタクであるが、オタクを名乗る隣人をオタクだと思えないことがある。

でも間違いなく隣人は隣人自身をオタクだと思っており、今の価値観で隣人はオタクなのである。

多分、オタクが迫害されない現代だからこそオタクという言葉が称号のような扱いになっているんだろう。ひとつの事にハマれる人、のような意味があると思われる。

そもそも、オタクを仲間認定する必要すら無くなっているのだと思う。

オタクの定義が緩まり、オタクが溢れかえった今、目に見えるだけでも周りにいるオタクの数が増えた。だからこそ少なかったオタクがオタクを見て仲間意識を感じるような時代ではなくなった。

オタクとしての一体感は必要なくなったのであろう。

(タイガー!ファイヤー!サイバー!ファイバー!ダイバー!バイバー!ジャージャー!)

私は生まれてから一度も(オタクだということを隠したことは無いが)オタクを理由に迫害されなかった。それは私より前の世代では有り得ない事かもしれない。

今はオタクであることがステータスになっているのかもしれない。それも私の頃は有り得ないことだった。

価値観は変わる。それについていけなければと思う。着いていく努力をしなくなった時から老化が進み、違う価値観を認められなくなった時、私たちが嫌っている(た)「老害」になってしまうんだろう。

新しい価値観を受け入れよう、私の持つ価値観はもう時代遅れだ。

ただ、純粋に思う。もう一度あの頃の結束感を味わいたいと。懐かしむのは悪いことではなかろう。

(虎! 火!人造! 繊維!海女! 振動!化繊!)

私の周りにオタクは全くいなかった。皆、アイドルや恋愛に興味のある子ばかりでゲームをする子も深夜アニメを見る子もほぼ居なかった。

ニコニコ動画を見たり深夜のハーレムアニメを見てグフグフするような友人はいなかったが、画面の向こう側にいる同好の士に仲間意識を抱き、夜な夜なインターネットを楽しんでいた。

ネットの知り合いは皆同じ価値観を有していたし当たり前に気持ち悪かったのである。

あの気持ち悪い空間が堪らなく好きだったのだが、もうそんなところは無いのだろうか。

キャラクターが背景に映ったメール、詳しくは言わないが、あの気持ち悪さ、否定する意図はない、ないのだが、あの気持ち悪さが堪らなく好きなんだ(暗黒微笑)

5ちゃんねるになら絶滅危惧種もいるだろうが勢いは減った。今北産業など打ってみろ、化石扱いされるのではないか?ただ寂しい。本当に寂しい。もうだめぽ

こんな感じの話し方の気持ち悪い陰キャオタクも減った。厨二病感満載のだ、である調で話す奴。香ばしくて大好きだったのに…バカにされるってバレちゃったからかな。

(今で言う「なろう系主人公」の妄想に取りつかれた人がすごくつまらないブログや書き込みをしていました)

インターネットはみんなの物になった。ネットゲームをしていてもオタク以外がいる。

ただ始めて見た、お喋りしたくて始めた、よくわかんないしゲームしたことないけどスマホゲーだけやってみたとか。

ネトゲやるやつはオタク、みたいな認識はもう古い。ガッしてくれる人は居ない。niceboat.は通じない。

謎の期待をして振ったら痛いヤツになってしまう。気をつけねばならん。

あの気持ち悪い空間はここではもう作れないし体験できない。時間の流れは辛い。

ネット上に居るやつはほぼ同志みたいな、そんなことはない。ないけどどうしてもそう思いたくなってしまう。

だってインターネットだよ(?)秘密を共有した仲みたいな、閉鎖的なインターネットを求めて彷徨い歩く亡霊。

時間はいつの間にか過ぎているから生活しているだけだとわからないのだが、ふと思い立った瞬間に猛烈な寂しさに襲われて今こんな感じになっている。

ルカルカ★ナイトフィーバーを聴きながら、もう兄貴に釣られることは無くなったよなって。ブヒるオタクは消えたよねって。m9する奴も居なくなったよねって。gkbrもwktkも使わない希ガス

これが老い…さみしいね(KONAMI

これを読んだ懐古厨の心が安らぐといいなと思う。楽しかった頃を思い出すのは悪くない。

ただ今を否定するのは良くないゾ。ついていけなくとも、ついていく努力をせねばなと自分を戒めような。

(チャペ!アペ!カラ!キナ!ララ!トゥスケ!ミョーホントゥスケ!)

これを読んで意味わからんと思う未来の懐古厨は、今ハマってるものが10年後当たり前に廃れてるから…その時にこの気持ちがわかるやろ。

…………イデア・シュラウドが好きになる理由はここにあるのかもしれんな。

ここまで書いて思ったけど、今の流行を貶すき一切ないし、懐古厨では無いや。懐古趣味だった。懐古厨ニキネキに失礼だったわ。

とりま今回はここまで。調子に乗ってwwwサーセンしたwww

ノシ

👾 ギルド運営論

人生の4分の1、ギルドマスターとして過ごしている雨傘による、題だけ強そうな「ギルド運営論」(中身は大したことありません)どうぞ。

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相談によく乗っている同盟ギルドのマスターがそろそろ限界のようです。その辛そうな様子を見てこのブログを書くことを決意しました。このブログを書き終える頃には同盟から脱退しているでしょう(未来予知)

ギルマスの楽しみ方はそれぞれ。現ギルマスの皆様、お互い上手くやりましょうね。

以前私は「ギルドマスターの楽しみ方」というブログを書きました。

 こちらを読んでから今回のブログを読んで頂けたらと思いますが、読まなくても大丈夫です。

上記のブログは(私の)トラブル対応の方法や理想のギルマス像が書かれているのですが、性格によっては向かないよなぁと疲れ果てたギルマスを見て思わされました。

私は2021年の6月時点で約5年半ギルマスをしている計算になりますが、人が居なくて辛いとか会話がなくて寂しいとかはあれど、ギルマスでいることに対してのストレスを感じたことはありません。

(2015/8〜2019/9まで1つ目のゲームでギルマスをしてサ終、2020/2〜現在まで2つ目のゲームでギルマスを続けています。2つ目のゲームに移るまでに少し時間があったのでマスター歴は5年半となっています。)

中学校3年生から始め現在大学4年生、中々に長い期間だとは思うのですが、全くストレスは感じなかったのでここまで続いていますし、本当に向いていたんだなぁと。

私の思う理想のギルマス像と性格が一致していた事が続けられた大きな要因なのかなと推測しています。

疲れたギルマス(以下Bさん)から相談を受けた私は「私ならこうする」という話を良くしていたのですが、私のアドバイスはBさんの性格にあってなかったんだなと気づき、前回書いた「ギルドマスターの楽しみ方」を読み実行した方が不幸にならぬよう急いでこれを書いています。

あれは私の性格にあったやり方です!!!!お気をつけ下さい!!!!

何がどう違うのかを説明、解説しつつ、前回の補足をしていこうと思います。ギルマスの立ち回りやギルドの運営方法について書きます。気になった方はお付き合い下さい。

性格による向き不向き

前回、ギルマスは「去るもの追わず」が良いという話をしましたが、それが難しい方も居るんだと理解していませんでした。

私は5年半で何百人ギルメンが辞めていったかわかりません。そして殆ど覚えていません。覚えている人の事も全く気にしていません。

私の認識ではギルドを抜けた時点で「ギルメンだった知り合い」になり、興味も無くなります。

親しい間柄でゲーム関係なく仲良くしていたいと思えば連絡先を交換します。その後は友人としてSNS等でやり取りをすれば良いだけです。

なのでギルメンが辞めることに対して一切の抵抗がありません。辞めちゃうんだな、残念だなぁ、寂しくなるなぁ、とは思いますがそれで終わりですし引き留めもしません。

引き留めることで良い影響があると思わないですし、上記の通り親しくしたい人なら連絡先を交換するからいいやって感じです。

ビジネスライクという言葉が相応しいでしょうか?ギルマスの私と、私自身をはっきりとわけているからこのような考え方になるのかなと。

ですがそうではない人が居るのだと、Bさんを見てわかりました。

引き留めることで力関係が云々と考えるのではなく、ギルメンのことが好きだから居て欲しいと純粋な気持ちで引き留めたり、居なくなった人を考えて寂しい気持ちがするようです。

多分、自身が引き留められたときに揺らぐから、引き留める側になった時にも同じように声を掛けるのかなと思いました。

ギルメンの脱退

ギルメンは「飽きた」「方針が合わない」「何かが気に食わない」等、何らかの理由がありギルドを抜けた(抜けると言ってくる)のだろうと私は考えています。

そして常に自分にとってベストなギルド運営をしている以上、合わないなら出ていくというギルメンの考えは当然だと思うわけです。

辞めるだけの理由が仮にギルドにあるとしても、変えて欲しいところを言ってこないのは、意見するだけの価値無しと判断したということだと思うので…ギルドへの愛がない人には去ってもらおう、です。

引き留めたところでギルドにメリットがないからそれで終わり、と言うのは冷たいと思われるのかもしれませんがギルドを辞める人なんて山ほどいるので気にしてたらやってられないと私は思ってしまいます。

そしてギルメンギルメン、等しく大切な存在。私からすると全員平等です。長く付き合った人であろうが無かろうが関係ありません。

だからあっさりお別れできるのですが…そう思わないのでしょうね、だから辛い。考え方の違いですよね。

慣れだと思っていたのですがそうではないようです。思い出せば一年目から気にしてなかったのでやはり性格。気にする人は私のような運営は向いてないなと思いました。

私とは違うタイプの性格の方は、一人一人と親しくなって仲良しギルドを作るやり方が向いてそうかなと思いました。

俺についてこい式

私は一対多数の接し方です。イメージとしてはアイドルとファンの関係、アイドルがマスターでファンがメンバーです。抜け駆け禁止みたいな。

マスターはギルメンを全員平等に扱います。そしてマスターが合わないなら抜ければ?ご自由にどうぞです。

「ギルド」に所属しているというよりかは「マスター」についていくという構造ですね。

これはマスターがメンバーを平等に扱うことでできる構造なので去る人を追い掛けるなんて絶対にできません。個々を見るのではなくて集団のひとりとしてみる。

アイドルもそうですよね、一人のファンと親しくしたら、その他大勢のファンは離れていく。偶像としてあり続ける必要があるんです。

(本当に親しくなりたかったら、こっそり連絡先を交換すればよし)

この運営方法はトラブルが少なくなる上、ギルマスに惹かれてついてくる人だけが残るためギルドがまとまりやすいです。

そしてサブマスだから強いとか長くいるから偉いとかギルド内での序列が出来ないので楽です。(伝わるでしょうか)

イメージ図

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マスターは「ギルメン」と関わり、個人間での付き合いはできる限りしないようにします。又、ギルマスを推す同志が集うので勝手に横の繋がりができます。

損切りは大事です。反乱分子は一掃する。嫌われ役も勿論やらねばなりませんが、それらを全て自分が担うことでついてくる人がいます。

ギルメンとの関係性

マスターが「自分に良くしてくれるから」一緒にいるのではなく、「この人について行けば安心だ」と思うからついてくる。

カリスマ(?)なんというのが正しいのか。マスターの人間性(?)についてくる訳です。

みんなと仲良くなるのではなくて、好きになってくれた人を大事にするという形です。ヘイトコントロールも楽です。本当におすすめ。

みんなに好かれるのではなくて一部に強く慕われる。その一部を集めて作るギルドは揺らぎにくいと思っています。

なので私は前回のブログで「マスターが変わらなければ一生続く形」といいました。

実際はみんなに好かれるように優しく丁寧に対応していますし猫を被っていますが絶対に折れない軸があります。

この軸を絶対に曲げない、折れない、一貫した態度を取り続けることでついてくる人がいます。

ギルマスにとって気に食わないメンバーがギルドに居て、その人を排除するのが面倒な場合に、「新しいギルドを作るから好きな人だけ付いてきて」と言えば9割以上ついてくるのがこの形です。

みんなと仲良くする式

ただこの「俺についてこい式」の運営方法が向かない人も勿論います。

強い姿勢を嫌う人も世の中には沢山いて、その人達から嫌われたくないと思う人も多いと思います。

(正直、普段の人間関係と変わりませんね。)

率いるのがあまり得意ではない、嫌われ役は向いていない方は、自分自身と親しい人で周りを固める仕組みにした方が向いているのかなと思いました。

一人一人の意見を聞いて、ギルマスとギルメンA、ギルマスとギルメンB、ギルマスとギルメンCというように関係をそれぞれと構築するやり方です。

その場合、ギルメンA.B.Cの仲はギルマスによって取り持たれる事になります。

みんなと親しく居られる「空間」に所属しているイメージです。そしてその「空間」はギルマスの献身によって保たれます。

イメージ図

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ギルマスとの親密度(距離の近さ)によってサブマスになったり、上下関係が決まったりしやすい形です。(この図の場合はAがサブマスになります)

ギルメンとの関係性

マスターが「自分に良くしてくれるから」このギルドにいるという構造です。つまりマスターと自分の関係が重要になってきます。

ギルドの形がそうなるのでギルメンはマスターと親しくなろうと思い、矢印がお互いを向く関係(恋愛ではありませんが)、分かりやすく言うと両思いの関係を築こうとします。

なのでギルマスと親しい存在であるサブマスの発言力も強くなりがちです。

そしてマスターと親しいギルメンのAさんがギルドを辞める時、ギルマスは悲しむのではないでしょうか。だからこそ「これからも一緒にいて欲しい」と引き留めるのでは無いでしょうか。

ギルマスとギルメンは親しさによって繋がれた関係なので、引き止める行為はプラスに働くのだと思います。「こんなに求められているならば、もう少しここに居てみようかな」と思うのかなと。

ギルマスはギルメンに嫌われたくないと思い、ギルメンもギルマスに嫌われたくないと思う。これが「みんな仲良くする式」のギルドの構造だと思います。

この場合、ギルマスはギルメン同士の仲を取り持つ必要があるので喧嘩の仲裁がとてつもなく面倒なことになります。

マスターにとって、気に食わないメンバーがギルドに居ても、独断でその人を排除できない形です。この形の場合マスターの権力は強くないし、そもそも仲良くしようと歩み寄っているのでまず課題解決に心を割かねばなりません。

仮に「新しいギルドを作るから好きな人だけ付いてきて」と言っても、「あいつと上手くやっていけるようにするのがマスターの仕事でしょ?」とメンバーに仲裁、問題の解決を求められてしまうのがこの形です。民主的ですねぇ。

(ギルマスと親しくする、ギルマスも自分に良くしてくれている、自分はギルマスに形として従っている、ギルマスに自分の要求をしてみる…トラブルはこうやって起きるのかな)

言い訳と弁明

ギルドの形はそれぞれにも関わらず、私はいつも通り「ついてこい式」のアドバイスをしていたのでさぞ混乱したことでしょう。良くなかったなぁと反省。

私からすると「みんなと親しくする式」のギルドは、気を使う量が半端ではなくストレスが溜まるのでおすすめしていませんでした。

ギルメンと個々で会話するよりもそれをギルチャでした方が活性化すると思うし(個々に返事するの面倒だし)、ギルメン同士の仲を取り持つのがギルマスの仕事になるし、理想や希望を押し付けられやすくなるし、ヘイトコントロールが難しくなるのでストレスマッハ…疲れるだけじゃん、と。

でも違うんですよね、「俺についてこい式」に抵抗がある、だからこそ「みんなと仲良くする式」の運営になる。

そして「みんなと仲良くする式」に私の書いた運営方法はあっていません。

なので前回のブログを参考にする予定の人は気を付けてください!!!

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性格と方向性

世の中には、群れを「率いるのが好きな人」と「率いられるのが好きな人」がいて、私は(好きなことに対しては)前者です。

そしてギルド運営は大好きなので、私が率いる形で行っています。

「率いるのが好きな人」

「率いるのが好きな人」は基本的に自己中心的ですが、ついて行きたくなる何かがあるように思います。我が強くて個性的な人が多いです。

(因みに魅力のない「率いるのが好きな人」は孤立するので見ればすぐ分かります。気を付けましょう。)

私に惹かれてギルドに入る人は殆どが「率いられるのが好きな人」です。曲げない姿勢に憧れたり安心するからついて来るのかなと思います。

「俺についてこい式」(自分=ギルドの形)の運営をする以上、ギルマスが周りに影響されない限りギルドは安定し続けます。

どちらかと言うと現状維持を求めがちな「率いられるのが好きな人」にとって居心地が良いのかなと思います。

方針が変わるとしてもついて行けば間違いないと思わせるだけの何かがあればついてきます。それはその時までに築き上げるギルマスの揺るがなさにかかっていますが、多分同類の皆さんは大丈夫だと思います。

ギルドには「率いるのが好きな人」が入ってくることも勿論あります。何事もなく上手くやる場合もありますし、自分が率いる立場になれないことに気づき自身のギルドを作ろうと出ていく人もいます。

「俺についてこい式」は特に何もしなくても不和は起きにくいですし、荒らしも勝手に諦めてくれることが多いので大丈夫です。

「率いられるのが好きな人」

お次に後者ですね。前者とは反対でどちらかと言うとサポートをしたい人、率いるのに抵抗がある人を「率いられるのが好きな人」と書きました。

決して悪い意味ではなく補助向きという意味、つまり協調性に優れている人はこのタイプに当たると思います。

おすすめなのは「率いるのが好きな人」のギルドでサブマスをする事です。(その場合とても輝くと思います)

ギルマスをやる場合はギルメンの意見を尊重しまとめようと思う為「みんなと仲良くする式」になりがちだと思います。

又、「率いられるのが好きな人」がギルマスのギルドに「率いるのが好きな人」が所属すると大変です。

敵対されたり乗っ取られたりギルド内不和を引き起こしたりする可能性があるので強い姿勢を見せること、ヘイトコントロールを徹底することが重要です。

強く出るのが得意ではないギルマスに強く出るギルメン……しかもギルマスと一対一の会話で圧をかけてくるのでストレスになるのではないでしょうか。

別に気が弱い訳ではなく、相手や周りの空気を乱さぬようにトラブルは避けねばと譲歩、対話を重ねるうちにどんどんギルメンが調子付き、舐められたり、ギルド内で不和をもたらしたり…様々なパターンが想像出来ます。

ギルマスが強いと簡単に抑えられることなのですがそうもいかない。ギルマスの代わりに、敵に対して強く出れるギルメンが必要になります。

ギルマスが「率いられるのが好きな人」の場合、親しくなりやすいギルメンは協調性のある「率いられるのが好きな人」(同類)だと思うので、「率いるのが好きな人」が入ってきた時に食い荒らされる可能性が高まります。

なので対策を練っておくと良いでしょう。思いつく対策としては、「一人で抱え込まない」「サブマスに即座に相談する」です。どこでも同じですね。

自分の性格を自覚する必要がある

私は性格上「みんなと仲良くする式」の運営が苦手で向いていないのでこの書き方をしていますが、ギルマスについて書いているブログを検索したところ「みんなと仲良くする式」が推奨されていました。

ギルメンの意見をまとめあげる必要があるとか、ルールを守らないギルメンへの不満の対処とか色々。

そして上記のような問題に悩むギルマスが知恵袋や個人ブログを覗くと大量発生していて「俺についてこい式」なら起こらないトラブルなのになぁと思いました。

なぜみんなそんなに苦労している???なんでだ、なんでそんなことになってるんだ?トラブルの元を放置するからそんな状態になるんだと頭を抱えました。

ストレスの原因

ギルドの方針を決める重要性、ギルメン勧誘の方法、ギルメンを定着する方法等は前回書いた通りなので省きますが、みんなゲームなのにストレスを抱えすぎです。

ギルマスが楽しくないギルドに居たいと思う人などいないと思うんです。ついてこないと思うんです。でもついてこさせる訳ではなく一緒に作っていくから問題ないのかな。

一所懸命やってストレスが溜まるなら仕方ないのかなぁ。でもゲームなのに楽しめなくなったら辛くない?って思ってしまいます。

性格によると思うのでどのような運営方法になるかは人それぞれですが、個人的には「俺についてこい式」の方が(気を使う範囲が狭まるので)ストレスも貯まらず楽ですよ、と伝えたいです。

ですが嫌われ役を買ってでることがストレスになる方もいるので難しいところですね。責任が全てのしかかるので失敗したら全て自分のせいだとギルメンに謝罪する必要がありますし。

ここまで結構強めなことを言いましたが…「俺についてこい式」のギルマスは飴と鞭が使えて、猫を被ってみんなに優しくできる人であるのが最低条件です。それができないとギルマスにヘイトが向きます。それだけ御注意下さい。

上手くやらないと邪智暴虐の王になってしまうのでギルメンの感情を上手く操作できない人は「仲良くする式」で運営することをおすすめします。

最後に

まとめとしてわかりやすく書くと以下の通りです。

95人からの好感度を捨てて5人に物凄く好かれる道を選ぶ人は「俺についてこい式」を。

100人に等しく好かれる道を選ぶ人は「みんな仲良くする式」を選ぶと良い。

どんなマスターになりたいか、なれるかで自分の理想のマスター像を掲げ、それに楽しみながら向かっていきましょう。

今回はここまで!

そこそこの文字数になり読むのが大変だったかもしれません。

ですが今回のブログは以前書いた「ギルドマスターの楽しみ方」と併せてお読み頂けたらと思います…読むの大変かもですが…気が向いたらぜひ笑

ここまでお付き合い頂きありがとうございました。またよろしくお願いします🧸

 

📚 鶴見 済『完全自殺マニュアル』

昨日手に入れたこの本を企業説明会の帰りの電車で読み耽り、先程読み終えました。

読んでいて思ったのは、ただただ面白いということです。ページをめくる手が止まりませんでした。

大事なことなので早めに書きますが、この本を読んで「死のう」とは思いませんでした。むしろあんなに嫌だった就活に前向きに取り組もうかなとすら思えました。

この本は「いつでも死ねる安心感」を読者に提供しています。

例えるならば宝くじ。仮に私が社会人一年目で一生遊んで暮らせるだけの宝くじが当たっても会社を辞めません。

「いつでも会社を辞められる」と思いながら適度に力を抜いて、心に余裕がある状態で働きます。

本当に気に食わないことがあれば辞めてしまえば良いし、転職も急がなくて良いし、週二でアルバイトをして生活しても良いし、遊んで暮らしても良い。その余裕こそが幸せな生活に必要だと思うんです。

この「完全自殺マニュアル」は読者をその状態にしてくれます。

「いざとなればどうにかなるからやってみようかな」「本当に無理になったら諦めるし今だけ挑戦してみようかな」と前向きな気持ちにさせてくれるんです。

題名だけを見て、自殺希望者が読む本だと思われるのは癪です。読み物としても本当に面白い。

ミステリー、ホラー小説を読む時の参考にもなりますし、創作活動をしている人にとっては良い資料になると思います。

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↑↓ミュシャ展のポスターでブックカバーを折ってみました。裏表とも素敵です。

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↓カバーをかける前はこんな感じ。カバー無しでは読めないです。

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そして作者の鶴見 済先生は説明がとてもわかり易いですし、何よりも言葉選びが素晴らしいです。

私は元々自殺肯定派なのですが、世間の目もあり口に出すことは出来ません。思っていても言わない様に気をつけて生きてきました。

ですがこの本では当たり前に自殺を肯定し、未遂の事例を挙げて「失敗」「死ねなかった」「不運にも助かってしまった」等と書かれています。

自殺に失敗した場合、後遺症が残ること、又「あいつ自殺しようとしたらしいよ」と噂をされ虐められる等、その後待ち受ける地獄について触れていたところも信用出来ました。

この手のものは「生きていれば良いことがある」「もう少しの辛抱」等と、死にたいと考える程に追い詰められた人間にとどめを刺すような事ばかり書いていることが多いです。

「自殺を止める自分優しい」と気持ちよくなっている人が世の中には沢山いて、その人たちは、辛い思いをしている人に対して解決出来る力も持たないばかりか、具体的な解決策も出さず、「死ぬのは良くないことだ」と引き止める自分に酔いしれています。

追い詰められた人を使って自慰をしているようなものです。不愉快極まりないです。

(勿論そうでは無い人もいます)

例えば借金に苦しみ自殺をはかる人に「生きていれば何とかなるよ」と言う。何とかなるなら、死のうとは思わないのです。自分の考えうる全てを試した結果ダメだったり、自分の命を犠牲にした方が楽だと本人が判断したから死ぬのです。

その言葉を発する人は代わりに借金を背負えますか?背負えないですよね。借金が返せるだけの仕事を紹介できますか?自己破産出来ない環境にあるのかもしれないし、もしかすると自己破産してもどうにもならない状態なのかもしれない。

何か解決策をその人に伝えられるわけでもないのに、折角覚悟をしたのに、漸く苦しみから解放されると思ったのに、これ以上の地獄を味合わせようとする人は悪魔か何かですか?

明日良いことがある「かもしれない」では足りないんです。今辛いからこの苦しみから解放されたい。それだけです。

実際にいじめを苦に自殺未遂をした少年が、自殺をはかったことがクラスメイトにバレてしまい、より一層いじめが加速し絶望、もう一度自殺をはかり、亡くなったという話もありました。

その件について著者は「一回目で死ねた方がましだった」と話しており、心の底から同意しましたし、全体を通して万が一にも助からないように細かにアドバイスをしてくれているのがとても親切で好感を持ちました。

完全自殺マニュアル」は、苦しみ抜いた自殺志望者の感情を無視せず、向き合い、こんな方法があるよと選択肢を与えることで、自殺志望者の心にゆとりを与えてくれています。

しかし批判の声も多いようです。読んでから批判するならまだしも、読まずしてどうして批判できようか。

なぜベストセラーになったのか考えてみれば分かることです。1993年に出た本が2021年現在でも売られていて117刷もしている事実。「完全自殺マニュアル」がそれだけ魅力的で愛されているからでしょう。

この本を読んで自殺した人がいる、という批判もあるようですが…この本を読んで自殺した?人間を舐めるのもいい加減にしてください。

自殺をする人は本を読もうが読まなかろうが死にます。批判するあなたは読みました?読んだ結果自殺したんですか?生きてますよね?

自殺した人は自殺をするだけの理由があったから自殺したんです。その人の意志を無視して本のせいにするなんて死んだその人に失礼ではありませんか?

確かに後押しにはなるかもしれませんよ。どうやったら死ねるのかわからなかった人が知識を得たことで自殺したかもしれない。

でも「本のせいで」自殺した訳では無いですよね。日本に銃があったらきっとその人は既に死んでいました。

それだけの事です。本人が本人の意思でした事を、他の要素のせいにするのは本人に失礼です。死ぬほど思い詰められていたのに、その苦しみはどこに行ってしまうのか。

読んで批判したならもう価値観の違いなので仕方ないと思うのですが、読まずに批判はなぁ…せめて本を読んでから批判しておくれ、そう思うばかりです。

1日も掛からず読み終えた「完全自殺マニュアル」は私に前向きな気持ちを思い出させてくれました。

この本をお守り代わりにもう少し頑張ってみようかな。諦めるにはまだ早い気がしてきた。

手に入らないから欲しい、逃げるから追う、人間の欲求って多分そういうものなんです。

この本を読んで、死が簡単に手に入るものになりました、今までよりずっと身近になったんです。だからまだいいやって。

この心のゆとりを1200円で買えるなら安いものですね。

総合して、とても良い本でした。一家に一冊…とはいきませんが興味のある方には読み物としてとても面白いのでオススメです。

グロテスクな表現が含まれますので苦手な方はお気をつけ下さいね。

最後に、自殺肯定派の私がもし大切な人に「死にたい」と相談されたらどうするかを書いておきます。

私の場合は、じっくり話しを聞き、共感し、理解を示します。

もし仕事がないならば一緒にハローワークに行きます。もし借金があるならば借金額を聞き返済にどれだけかかるのか、どうすれば良いのか考えます。もし恋人と別れたならば良い人を探せるように協力します。

私にできることを事前に伝えます。

そして最後に「私は貴方が死んだら悲しいよ」と伝えます。

それでも止まらぬなら仕方がないことです。私にそれ以上のことはできません。死なないで、と言えるだけの力を私は持たないので。

一生大切な人を失った悲しみを抱いて生きていくことになりますが、やれることはやったならば仕方がないでしょう。

大切に思う人の意志を最後まで尊重できる人間でありたいと私は思います。

以上!

元気になった雨傘、就活頑張ります!

ここまで読んで下さりありがとうございました♡

 

気持ちを楽にする為に

ドヤァ

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ガッツリ書きました✌️

完自マも買いました。

やるかやらぬかは置いておいても気持ちは楽になりました。もう大丈夫。

駄目人間だとか社会不適合者とか思ってもまぁいっかと思えるようになった気がする。

その先がここにある。

最近毎日楽になりたいと思っているのでそろそろ本当に終わりにしたい…しんどい、楽になりてぇ〜

ここにそんなに価値ある気がしない…やりたいこともやったし…私を縛るものもないし、適当に生きていけないならもういいよってなるよな…楽になりたい、永眠したい。ほんとそれだけ。

就職先さえ決まればまた生きていけると思うんだけどね。

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このブログを書いてから2時間後

親に頼み込んで毎日毎日色々言ってもらうことにした。

これでまたまともに出来るかもしれない。毎日毎日、ね。縛られたくないのに縛られねばできない、やはり社会不適合者だな。

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そのあと少年たちと電話をした。凄く元気が出た。明るくキラキラした未来への希望溢れる少年たちと会話をして復活(?)した感じ。人と会話するのって大事だな。

会話が好きなのに会話出来てないから(全オンライン授業)鬱ってんのかもしれん。

頑張れる気がしてきた。

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思い返せば、高校も大学も自分で決めていない。ここが良いのではないか?と言われてそれに向かってやっただけである。

高校受験の時、志望校はなかった。憧れもなくただ良いと言われたところに行こうと思っていた。親と先生に「○○高校は勉強したら受かるから目指したら?」といわれ目指した。

大学受験の時も、志望はなかった。「○○大学受ける気ない?多分受かるよ?」と言われ準備をして受かった。

私は多分、生まれてからずっと自分の人生に興味がなくて適当に生きてきたんだと思う。受験というみんながぶつかる壁には、多少ぶつかったが、越えられる壁を越えてきただけなんだろう。

私の就職活動が難航しているのは、やりたいことも入りたい会社もないからなのだろう。いつも通りどうでも良いと思っている。

完全週休二日制なら正直どこでも良い。でもどこでも良いと思っている人間は入れないのである。

何か出来ることがある訳では無い。入りたい熱烈な理由がある訳でもない。そんな人間を欲しがる会社がどこにあるのか。

私は本当になんでも良くて、もしどこかに入ったらそこで頑張るんだろう。

アルバイト先で私がそれなり以上に頑張っているように会社に入ればそれなり以上に頑張ると思う。

その場所は正直どこでも良いのである。本音を言うならば給料も正直どうでも良い。休みさえあれば良い。

ギリギリまで家にいるつもりなのでお金はそんなに掛からないし、コンスタントにお金が掛る趣味は持っていない。ギャンブルも煙草も酒もせず、推しているアイドルがいる訳でもない。

貯金が好きなのでお金は貯まるだろうし。どうにか入れれば頑張れると思うんだよな。

過酷な労働環境だと無理かもしれないが…その時はその時である。訴えて金をもぎ取ってやるつもりでいっぱい。そういうことです。

週休二日なら給料が低くても平気だし客に怒鳴られても多分大丈夫なのである。

ここが良いよと言ってくれればそこに入るために多分頑張れる。ただ、ここが良いよの後、またここが良いよと言い続けてくれないと就活は続けられない。

私を生かす為には社会に溶け込ませなければならず、溶け込ませるための努力は本来自分がすべきことなのだが、自分はやる気がない。

そして社会に溶け込めなかった場合、永眠すれば良いやと思っているから結局、死なせたくないなら周りがやるしかない。

でもそんなめんどくさい存在になりたくない為、さっさと永眠しよって思っている。

その結果、完自マを買い、遺書を書き、ウキウキしているのである。

自分の将来への興味のなさが異常過ぎる。将来の夢が幼い頃からなかった。いついかなる時も過去に戻りたいとは思わない。

過去を変えたい人は現状に不満があるか、変えたい未来があるかだと思う。私にはそんな夢も希望もない。

変えたい過去はなく、ただ生きているだけ。

やはりこんな無感動な生活に意味を見いだせないと思う。

⿴⿻⿸

思ったことをつらつら書く。

私が求めるのは慰めや励ましではなく叱責。でも自身を優しいと思っている人は励ましてくる。

励ましてくる人のことを私は優しいと思わないし、近くに置かないが稀にその人達に厳しいことを言ってくれと伝えてみることがある。

でも決して厳しいことは言ってこないので彼らは優しいと思われたいのだなと感じ人間は面白いなと思う。

私は共感を求めず理解を求めるが、共感と理解を同じだと捉える人が多いため共感してくる。それも私からするとあーぁ、と思う。

私は所謂お節介と呼ばれる人と相性が良い。それは私がこんなんだからだろう。

興味のあるもの以外がどうでも良いから適当になってしまう。私の生命維持にも興味が無いからこうなっている。

自然と生きていたいと思う人間は楽でいいなと思った。こんなにも生きるのがめんどくさいのにその面倒くささに目を瞑れるのが凄い。もしかしたら面倒臭いと思わないのかもしれないが。

 

夜ご飯はカツオの刺身だったけど食べきれない、一旦冷蔵庫に入れたから後で食べる。

 

もう意味わかんないからカツオの前で泣いてる、どうにもならない。

謝りたい気持ち。

 

自殺だと周りの人が悲しむから他殺がいい。他殺なら殺人犯を恨むことで悲しみも減るでしょ。

 

親に申し訳ないし、友達も悲しむだろうからまだ死ねない。本当に申し訳ない気持ちでいっぱい、早くどうにかなりたい。

 

お金を渡したい、解決したい。現実逃避ももう無理だし、どうにかしないとまずいけどどうにも出来ない、ほんとうに申し訳ない。

 

この申し訳なさをどうにかしたくて今すぐ謝罪したいけど、今謝ったらなんか変な感じになっちゃう。

 

✏️ 古事記「鵜葺草葺不合命」

我らが文学部日本文学科では変体仮名は勿論ですが…万葉仮名も解読する必要があります。

万葉仮名は上代で使われていた文字なのですが、レポートを見ていただいた方が早いので解説は無しです(1番上の画像が万葉仮名です)

とてつもなく出来の悪いレジュメとレポート。あまりの酷さに、提出する前、こんなんじゃ単位が貰えないと絶望したほどです(温情で貰えました)

これから大学で古事記真福寺本)の上巻、鵜葺草葺不合命を学ぶ生徒の苦しみが少しでも減るように、そしてこんな酷いレポを提出した私自身への戒めとして公開します。

さすがに全ては載せきれないので一部だけです。全部載せたらスクロールで指取れます。

一般の方(?)が読むならレポートのみがオススメです。レジュメは文章になってないので意味不明だと思います。

好きな方が読んでニタニタするくらいしか楽しみ方はないかと思います笑

古事記?ナニソレオイシイノ?」な方が読んで理解できるようなものではありません!一万字以上あります!

本当に時間の無駄なのでお気をつけください!古事記に興味がある方は読んでみても面白いかもしれませんが…気になる方はどうぞ。

レジュメ(レポートに続く)

古事記』上巻・鵜葺草葺不合命2
真福寺本『古事記』影印(桜楓社)

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翻刻本文】
631然
632後者難恨其伺情不忍恋心因治養其御子之縁附其弟玉依毘
633売而就歌之其歌日阿加院麻波責佐閉比迦礼梯斯良多麻能
634岐美能何余金曾比斯多布斗久阿理郡理余其比古遅答歌日
635意岐都登理加毛度久斯麻迩和賀葦泥斯伊毛波和須礼士余
636能許登基登選故日子穂々手見命者坐高千穂宮伍佰捌拾歳御
637淩者即在高千穂山之西也是天津日高日子波限建鵜葺草不
638葺不令命娶其姨玉依毘売命生御子名五瀬命 次稲氷命 次御
639毛沼命次若御毛詔命亦名豊御毛沼命名神倭伊波礼毘古
640今故御毛沼命者跳浪穂渡坐手常世国稲氷命者為姓国而
641入坐海原也
 
【校訂本文】
631然
632後者難恨其伺情不忍恋心因治養其御子之縁附其弟玉依毘
633売而①献歌之其歌日②阿加③陀麻波責佐閉比迦礼梯斯良多麻能
634岐美能何⑤余曾比斯多布斗久阿理郡理余其比古遅答歌日
635意岐都登理加毛度久斯麻迩和賀⑥韋泥斯伊毛波和須礼士余
636能許登⑦碁登選故日子穂々手見命者坐高千穂宮伍佰捌拾歳御
637⑧陵者即在⑨高千穂山之西也是天津日高日子波限建鵜⑩⑪葺草不
638葺不⑫合命娶其姨玉依毘売命生御子名五瀬命次稲氷命次御
639毛沼命次若御毛⑬沼命亦名豊御毛沼命名神倭伊波礼毘古
640⑭命故御毛沼命者跳⑮浪穂渡坐⑯于常世国稲⑰氷命者為姓国而
641入坐海原也
 
【訓読文】
しかれども後は、その伺ひたまひし情を恨みませども、恋しき心に忍びずて、その御子を治養しまつる縁に因りて、その弟玉依売に附いて歌を献りたまひき。その歌に日く、
あかだまは おさらへひかれど しらたまの きみがよそひし たふとくありけり
ここに、その比古遅、答へて歌ひたまひて曰く、
おきつとり かもどくしまに わがゐねし いもはわすへじ よのことごとに
故、日子穂ゝ手見命は、高千穂の宮に坐すこと、伍佰捌拾歳。御陵は高千穂の山の西に在り。
この天津日高日子波限建鵜葺草不葺合命、その姨玉依売命に娶ひして、生みませる御子の名は、五瀬命。次に稲氷命、次に御毛沼命。次に若御毛沼命、またの名は豊御毛沼命、またの名は神倭伊波礼毘古命。故、御毛沼命は、なみの穂を跳みて常世の国に渡り坐し、稲氷命は、妣の国として、海原に入り坐しき。
 
端末のせいでルビが振れないため以下にひらがなで表記します。
 
しかれどものちは、そのうかがひたまひしこころをうらみませども、こいしきこころにしのびずて、そのみこをひたしまつるよしによりて、そのいろどたまよりびめにおいてうたをたてまつりたまひき。そのうたにいわく、
あかだまは おさらへひかれど しらたまの きみがよそひし たふとくありけり
ここに、そのひこぢ、こたへてうたひたまひていわく、
おきつとり かもどくしまに わがいねし いもはわすへじ よのことごとに
かれ、ひこほほでみのみことは、たかちほのみやにいますこと、いほとせあまりやとせ。みさざきはたかちほのやまのにしにあり。
このあまつひこひこなぎさたけうかやふきあへずのみこと、そのをばたまよりびめのみことにみあひして、うみませるみこのなは、いつとせのみこと。つぎにいなひのみこと、つぎにみけぬのみこと、つぎにわかみけぬののみこと、またの名はとよみけぬのみこと、またのなはかむやまとちはれびこのみこと。かれ、みけぬのみことは、なみのほをふみてとこよのくににわたりまし、いなひのみことは、ははのくにとして、うなばらにいりましき。
 
【現代語訳】
しかし、後に覗き見した心を恨むことはあったが恋しい気持ちに耐えられず、その御子を育てるという理由で弟の玉依依売に歌を託して献上した。
その歌は、「あかだまは おさらへひかれど しらたまの きみがよそひし たふとくありけり」(赤玉は最後までひかるが白玉の輝きはあなたのようで素晴らしい)というものだった。
そこで比古遅は「おきつとり かもどくしまに わがいねし いもはわすへじ よのことごとに」(鴨のなく島で一緒に寝た妻を一生忘れません)と返した。
さて、日子穂々手見の命が高千穂の宮にいた期間は伍侶捌拾歳である。そして御陵は高千穂の山の西に在る。
この天津日高日子波限建鵜葺草不葺合の命は、その姨玉依売命を妻に貰い、生んだ御子の名前は、五瀬命。次が稲氷命、次が御毛沼命。次が若御毛沼命若御毛沼命のまたの名は豊御毛沼命で、他にもあるまたの名は神倭伊波礼峨古命という。
そして、御毛沼の命はなみの穂を跳んで常世の国にわたり、稲氷の命は妣の国として、海原にお入りになった。
 
【校異】
①    「献」…「就」真
        「献」兼、前、猪、神道
→就だと意味が通らないので献とする。

②    「阿」…「河」真
        「阿」兼、前、猪、神道、春
→和歌の初め「あかだまは〜」なのであと読む。634で出てくる阿と河はよく似ている。誤字のため阿を採用する。
〇木簡庫くずし字データベース
 f:id:ama_gasa:20210524063302j:image

③    「陀」…「院」真
        「陀」兼、前、猪、神道
神道】「院」に誤る。→院は誤字なので陀とする。
〇木簡庫くずし字データベース
 f:id:ama_gasa:20210524063315j:image
 ④    「能何」…「能何」真
「何」兼、春、神道
→底本を尊重しママとする。
 
⑤    「余」…「金」真
        「余」兼、前、猪、神道
神道】「金」に誤る。→金は誤字なので余とする。
〇木簡庫くずし字データベース

f:id:ama_gasa:20210524063414j:image 

⑥    「韋」…「葦」真
        「韋」道、兼、神道
→他に葦を用いた例がないため韋とする。
 
⑦    「碁」…「基」真
        「碁」兼、前、猪、神道
→字が潰れていて判断が難しいので他のはっきりと分かる本を見たところ、碁と書いてあったので碁とした。
 
⑧    「陵」…「陵」真
「凌」兼、前、猪、神道
→氵と阝を書き間違えたと考えられるため氵を採用した。
 
⑨    「其」…「ナシ」真
        「其」兼、前、猪、道、神道
→あった方が読みやすいため其を採用した。
 
⑩    「不葦」…「不葦」真、勢
          「葦不」兼、前、猪、神道
→どちらでも意味が通るため底本を尊重した。
 
⑪    「葦草」…「葦草」真、眞、兼、神道
          「草」道
神道】ここは道は「草」一字に作るが日本紀か舊事本紀に依って修正した疑いがあり、眞福寺本と兼永本が「葦草」になっているのでこれを原型とする。→葦草を採用する。
 
⑫    「合」…「令」真
        「合」兼、前、猪、神道
→文脈を考えると令は誤字だと考えられるため合とした。
 
⑬    「沼」…「詔」真
        「沼」前、猪、神道
        「呂」勢
        「治」兼
神道】底「詔」に作り、兼「治」の右側に「沼」と小書。道「呂」。原型が「沼」であることは推定がつく。→沼を採用。
 
⑭    「命」…「今」真
        「命」兼、神道
→同じような文章が他にも出てきているが他では命と書いてあるため、今は誤字だと判断した。
 
⑮    「浪」…「浪」真、勢、朝、西、神道
        「波」兼、寛、延、記
→意味は変わらないため底本を尊重する。
 
⑯    「于」…「手」真
        「千」兼
        「于」神道
→于の意味だと考えられるので于を採用する。
 
⑰    「氷」…「泳」真、勢、神道
        「氷」兼、前、猪
→氷の方が意味が通りやすいと思うので氷を採用した。
 
 
【異訓】
「然」…「シカレドモ」訓、延、古事記伝、校訂、西郷
        「サテ」兼、道
古事記伝】然後者は、(一句を隔てて、)不忍悪心と云に係れり、然は斯加綾好母シカレドモと訓べし、上の白三云々返入、と云を承て芸るなり→シカレドモを採用した。
 
「治養」…「ヤシナヒヒタス」延
          「ヤシナヒタテマツル」寛、兼、曼、猪、竜、訓、古事記伝、校訂
          「ヤシナヒ奉」鈴、前
          「ヒタシマツル」西郷
古事記伝】治養は、比多志職都流ヒタシマツルと調べし、中巻玉垣宮段に、日足奉とある、此字の意にて多志は令。
【西郷】ヒタスは日足すで、「児は、日数の積るに随ひて、成長る物なる故に、御子を治養す日数を足らしむる意」(「記伝」)を以て、かくいう。
→ヒタシマツルを採用する。
 
「生」…「ウミマセル」校訂、訓、西郷
        「アレイセル」延
→訓読みの通りウミマセルとする。
 
「跳浪」…「ナミノ(ホヲ)フミテ」訓、校訂、西郷
          「ナミノリテ」延
          「ナミヲシヒライテ」寛、兼、鈴、前、曼、猪、竜
→素直に読むとナミノホヲフミテになるためそのまま読む。
 
「海原」…「ウナハラ」訓、寛、兼
          「ウナバラ」延、校訂
万葉集からも分かるように当時はウナハラの読みが主流のためウナハラを採用する。
 
【語釈】
○治養
古事記伝】治養は、比多志職都流ヒタシマツルと調べし、中巻玉垣宮段に、日足奉とある、此字の意にて多志は令。足なり、(今世の言にも令、足を多額と云り、)書紀私記に、云三比太須其義如何、答師説、凡人子、初生日敷最少、而漸々長養、日敷最前足、故講養長其子、賞日足耳、と云る如く、見は、日敷の積るに随ひて、成長る物なる故に、日敷を足らしむる意以て、養育ることを、然云なり、書紀にも、養、また子、養長 養持 養隊養など、皆然訓り、」上宮記(界紀に引)に、無親族部之國、唯我獨難養育比陀斯、讃紀四に、人租乃、意能賀弱見乎養治事乃如久、治賜比慈賜、萬葉十三(二十八丁)に、何時可間日足座面、(比真葉なるは、成長賜ふ自のうへより申せるにて、此多良志は、多理を延たるなり、令足には非ず、)など見ゆ、(倭姫命世記に、登働入範命、吾日足止日支とあるは、儀式帳には、御形長とあれど、これは老思ひぬるを云る如く聞ゆるなり、又今俗に、病の念りて後、漸に健になるを、比陀都と云も肥立と書は、俗のしわざにて、比も日敷の経過よしにて、日足と同意なり、若は比陀流を歌れるにもあるべし、)書紀一書に、亦云彦火々出見尊、取婦人、為乳母湯母及飯噛湯坐、凡諸部備行以奉養焉、于時績用他姫婦以乳養見之縁也とあるは、此御子を日足奉りしさまを、委く云るへなり。
 
【日本思想大系】「日足す」の意で、日は生命の霊威をいい、子供の生長力を充たす願いから出た言葉。ここでの主語は玉依此売。→補雄弟ここは同母の妹の意。
 
【西郷】ヒタスは日足すで、「児は、日数の積るに随ひて、成長る物なる故に、御子を治養す日数を足らしむる意」(「記伝」)を以て、かくいう。垂仁天皇の子ホムチワケの条に「御母を取り、大湯坐、若湯坐を定めて、日足し奉るべし」(二十四ノ五)とある。皇子養育のことを語ったものだが、それが書紀ではこのフキアヘズの段で、「彦火火出見尊、婦人を取りて乳母、湯母、及び飯嘱、湯坐としたまふ。凡て諸部備行りて、養し奉る。時に、権に他婦を用りて、乳を以て皇子を養す。此、世に乳母を取りて、児を養す縁なり」(第三の一書)といってある。ホムチワケもフキアへズも母と離別する話なので、子の養育制の由来を語る好機であったのだろう。この制度の実際についてはホムチワケの条にいう。なおヒタスではなくヒダスとする説もある。あるいはそれに従うべきか。
 
○あかだま
古事記伝】赤玉者なり。
【新潮日本古典集成】赤色の玉。「琥珀」を「阿加多末」と読んでいる。
 
○しらたま
古事記伝】白玉之なり、下に、如きと云言を添て意得べし、(此格古歌に常多し)以上三句書記には、アカダマノ、ヒカリハアリト、ヒトハイヘドとあり。
古事記全講】白い美玉のような。
【新潮日本古典集成】白色の玉。一般には真珠を指す。
 
○おきつとり
古事記伝】奥ツ鳥なり、奥に住鳥を云て、鴨の枕詞なること。
古事記全講】沖の方にいる鳥である鴨の意に、鴨にかかる枕言葉
【新潮日本古典集成】「鴨」の枕詞
 
○わがゐねし
古事記全講】私が共寝した。
 
○高千穂ノ宮
【日本思想大系】高千穂ノ宮 上文に「竺繁ノ日向之高千穂之久士布流多気
御陵者高千穂ノ山之西 紀の本文(第十段)に「葬日向高屋山上酸こ。鹿児島県姶良郡溝辺町麓の地という。
 
【西郷】この宮の所在地につき古来あれこれと議されているが、それを確定するるのは無理というべきである。「高千穂の久士布流多気
 
五瀬命
【日本思想大系】 紀に彦五瀬命鵜葺草葺不合命の第一男。イッは厳、齋の意。セは神稲で、この兄弟すべて稲にかかわる名を持つ。神武記に神倭伊波礼眠古命(神武天皇)ととるに東征し、登美眺古の矢にあたり紀国の男之水門で崩じたとある。
 
【西郷】「記伝」に「厳稲」なりというに従う。ここに生れる他の三男もみな稲または食物に因んだ名を負う。
 
 
○稲泳命
【日本思想大系】紀に稲飯命鵜葺草葺不合命の第二男。一書(第十一段)第二には第三男、同第四は彦稲飯命に作り第三男とする。稲氷のとは霊の意。神武即位前紀戊午年六月丁巳条に「稲飯命乃欺日、墜乎、吾祖則天神、母則海神。如何厄 我於陸一復厄我於海乎胞、乃抜剣入海、化為釧持神」とある。
 
【西郷】書紀に稲飯とあるによって名義は明らかである。もっとも、イナヒのヒがム-何れも甲類の仮名に属するスヒのヒ(霊)か、イヒ(飯)のヒか--両様に解しうるが、稲の霊はふつうイナダマと称するから、後説によることとする。
 
御毛沼命
【日本思想大系】紀の本文(第十段)、一第一第四に三毛入野命。同第二に三毛野命。鵜華草葺不合命の第三男。同第二は第二男、同第三第四は第四男とし、同第三は稚三毛野命に作る。ミは敬称、ヶは食物の意。神武即位前紀戊午年六月丁巳条に「三毛入野命、亦恨之日、我母及嬢並是海神。何為起波潤、以遭溺乎、則踏…浪秀、而往乎常世郷」
 
【西郷】紀には三毛入野命また三毛野命とある。ケは食物のこと、ヌは不明。語調の上で軽く添えただけであろう。
 
若御毛沼命
【日本思想大系】後の神武天皇。紀本文にはこの名がみえず一書(第十一段)第一に狭野導をあげ、「所三称狭野者、是年少時之号也」とする。同第三に稚三毛野命の名が神日本磐余彦火火出見尊の弟としてみえるが、これは同一人を別人として伝えたるのらしい。ワカは若わかしいことの美称、御毛沼命の弟をあらわす名。
 
【西郷】前の御毛沼命に対す。「豊御毛沼命」も同じ。前に「火遠理命。亦の名は天津日高日子穂穂手見命」とあったのと同じでこれは天皇になってからの称である。
 
○豊御毛沼命
【日本思想大系】紀にはこの名がみえない。トヨは豊かなさまで美称。神倭伊波礼古命後の神武天皇
 
 
常世
【日本思想大系】神武即位前紀戊午年六月丁巳条に「往三予常世郷」
 
【西郷】これも少名毘古那が常世国に渡ったと既出だが、書紀にはこのことが神武東征の途次、熊野沖で暴風にあい三毛入野命は、「我が母(玉依姫)及び嬢(豊玉姫)は、並に是海神なり。何為ぞ波潤を起てて、瀧溺すや」といって、「浪の秀を踏みて、常世郷に往でましぬ」(神武紀)と見えている。なお次の「批の国」の項を参照。スサノヲが「批の国根の堅州国」にゆきたいといって泣いたことは既出。ここには「稲氷命は、批の国と為て海原に入り坐しき」とあるが、それが書紀では三毛入野命と同様、熊野沖で暴風にあい、稲飯命は「吾が祖は天神、母は海神なり。云々」といい終るや剣を抜いて海に入り「鋤持神」となったと見える。
 
○批ノ国
【日本思想大系】「蛾」は亡き母の意で、玉依売「批ノ国根之堅州国」
 
【西郷】稲氷命が海原に入ったという所伝に関して姓氏録、右京皇別、新良貴条に彦波獄武鵬鵜草葺不合尊男稲飯命之後也是出於新良国、即為三国主、稲飯命出、於新羅国主者祖合、日本紀不見」。稲氷(飯)命が新羅へ行って国主となったという伝えは、後世に作られた話で、記の海原に入った、紀の剣を抜いて海に入ったという神話を新羅国に結び付けて潤色させたものであろう。
 
〇玉依毘売
【西郷】大物主神の妻になった活玉依毘売、「賀茂社縁起」にみえる玉依日売がよく知られている。そしてそれは神霊のより憑く女、すなわち巫女のいいである。しかしこの玉依毘売を巫女ときめつける必要はない。それは姉豊玉毘売にたいし妹をそう呼んだまでであろう。この女は姉の生み置いた子を養育するゆかりでここに登場する。つまり乳母である。
 
〇日子穂穂手見命五
【西郷】さきには「火遠理命。亦の名は天津日高日子穂穂手見命」とあった。それがここで亦の名の方で呼ばれているのは、その方が天皇として正式の名であったからで、同様のことが次節の神倭伊波礼毘古命(神武)についてもいえる。
 


レポート(レジュメの続き)

本レポートでは、発表時に不足の指摘をされた【校異】と【異訓】と【語釈】に関する追加調査の結果を始めに示す。
 
一、【校異】真福寺本633行目「河」について
資料作成時に根拠が足りなかった「河」の字を調査した結果、兼永本では「阿」とあり、注釈書にも「阿」と確認できた。(なお、調査では記伝、思想体系、猪熊本、神道大系、春満書を参照。)新潮日本古典集成に「阿加陀麻とは赤色の玉。琥珀を阿加多末と読んでいる。」という指摘がある。「木簡庫 電子くずし字データーベース」で「河」を調べたところ、くずし字が「阿」と類似しており「阿」字の誤りであった可能性がある。「河」とは「大きなかわ」という字義であるため、文脈にそぐわない。従って真福寺本の文字を「河」と認定した上で、誤写の可能性を考慮し「阿」字を採用する。

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 二、【校異】真福寺本633行目「院」について
資料作成時に根拠が足りなかった「院」の字を調査した結果、兼永本では「陀」とあり、注釈書にも「陀」と確認できた。(なお、調査では記伝、思想体系、猪熊本、神道大系を参照。)神道大系に「院は誤字なので陀とする。」という指摘がある。「木簡庫 電子くずし字データーベース」で「院」を調べたところ、くずし字が「陀」と類似しており「陀」字の誤りであった可能性がある。「院」とは「かきをめぐらした建物、上皇法皇の居所、またその人の尊称」という字義であるため、文脈にそぐわない。従って真福寺本の文字を「院」と認定した上で、誤写の可能性を考慮し「陀」字を採用する。

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 三、【校異】真福寺本634行目「金」について
資料作成時に根拠が足りなかった「金」の字を調査した結果、兼永本では「余」とあり、注釈書にも「余」と確認できた。(なお、調査では記伝、思想体系、猪熊本、神道大系を参照。)神道大系に「金は誤字なので余とする。」という指摘がある。「木簡庫 電子くずし字データーベース」で「金」を調べたところ、くずし字が「余」と類似しており「余」字の誤りであった可能性がある。「金」とは「金属、こがね」という字義であるため、文脈にそぐわない。従って真福寺本の文字を「金」と認定した上で、誤写の可能性を考慮し「余」字を採用する。

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 四、【校異】真福寺本636行目「基」について
資料作成時に根拠が足りなかった「基」の字を調査した結果、兼永本では「碁」とあり、注釈書にも「碁」と確認できた。(なお、調査では記伝、思想体系、猪熊本、神道大系を参照。)「木簡庫 電子くずし字データーベース」で「基」を調べたところ、くずし字が「碁」と類似しており「碁」字の誤りであった可能性がある。「基」とは「1番下で支えるもの」という字義であるため、文脈にそぐわない。従って真福寺本の文字を「基」と認定した上で、誤写の可能性を考慮し「碁」字を採用する。

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 五、【校異】真福寺本637行目「陵」について
資料作成時に根拠が足りなかった「陵」の字を調査した結果、兼永本では「凌」とあり、注釈書にも「凌」と確認できた。(なお、調査では記伝、思想体系、猪熊本、神道大系を参照。)「木簡庫 電子くずし字データーベース」で「陵」を調べたところ、くずし字が「凌」と類似しており「凌」字の誤りであった可能性がある。「陵」とは「1番下で支えるもの」という字義であるため、文脈にそぐわない。従って真福寺本の文字を「陵」と認定した上で、誤写の可能性を考慮し「凌」字を採用する。

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六、【校異】真福寺本637行目「令」について
資料作成時に根拠が足りなかった「令」の字を調査した結果、兼永本では「合」とあり、注釈書にも「合」と確認できた。(なお、調査では記伝、思想体系、猪熊本、神道大系を参照。)「木簡庫 電子くずし字データーベース」で「令」を調べたところ、くずし字が「合」と類似しており「合」字の誤りであった可能性がある。「令」とは「いいつけ、おきて」という字義であるため、文脈にそぐわない。従って真福寺本の文字を「令」と認定した上で、誤写の可能性を考慮し「合」字を採用する。

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七、【異訓】「然」の訓読について
資料作成時に根拠が足りなかった「然」の訓読についての調査結果を以下に記す。当該箇所の「然」を鼇頭古事記、記伝、校訂本文、西郷注釈、新編全集には「シカレドモ」とあり、兼永本、神道大系では「サテ」、思想体系では「シカシテ」と訓読していた。「然」の訓読について古事記伝では「然後者は、(一句を隔てて、)不忍悪心と云に係れり、然は斯加綾好母シカレドモと訓べし、上の白三云々返入、と云を承て芸るなり」という指摘があり、シカレドモを採用する。
 
八、【異訓】「治養」の訓読について
資料作成時に根拠が足りなかった「治養」の訓読についての調査結果を以下に記す。当該箇所の「治養」を、鼇頭古事記には「ヤシナヒヒタス」、寛永版本、兼永本、曼殊院本、猪熊本、古事記伝、祐範本には「ヤシナヒタテマツル」、西郷注釈には「ヒタシマツル」、新編全集は「ヒタス」と訓読していた。「治養」の訓読について古事記伝では「治養は、比多志職都流ヒタシマツルと調べし、中巻玉垣宮段に、日足奉とある、此字の意にて多志は令。」という指摘、西郷注釈では「ヒタスは日足すで、「児は、日数の積るに随ひて、成長る物なる故に、御子を治養す日数を足らしむる意」(「記伝」)を以て、かくいう。」という指摘があり、ヒタシマツルを採用する。
 
九、【異訓】「海原」の訓読について
資料作成時に根拠が足りなかった「海原」の訓読についての調査結果を以下に記す。当該箇所の「海原」を、鼇頭古事記には「ウナバラ」、寛永版本、兼永本、思想大系、新編全集では「ウナハラ」と訓読していた。「海原」の訓読について同時代文献の「宇奈波良尓 霞多奈妣伎 多頭我祢乃 可奈之伎与比波 久尓弊之於毛保由」(万葉集二十巻 四三九九番歌)という一字一音表記例も確認できた為、今回は「海原」の訓読として「ウナハラ」を採用する。
 
十、【語釈】「赤玉」「白玉」について
資料作成時に根拠が足りなかった「赤玉」「白玉」の言葉の意味についての調査結果を以下に記す。
白玉については、古事記伝に「赤玉者なり。」、新潮日本古典集成には「赤色の玉。「琥珀」を「阿加多末」と読んでいる。」との指摘があった。
赤玉については、古事記伝「白玉之なり、下に、如きと云言を添て意得べし、(此格古歌に常多し)以上三句書記には、アカダマノ、ヒカリハアリト、ヒトハイヘドとあり。」との指摘があった。
古事記全講には「白い美玉のような。」、新潮日本古典集成「白色の玉。一般には真珠を指す。」
歌に関しては、古事記伝「一首の意は、赤玉は、緒さへ光りて、いと美好しけれども、其よりも、白玉の如くなる君が御光優ぞ、なほまさりて美き、と云て、懸塞ひ奉る御情を遮賜へるなり。」とあった。
 
以上の追加調査結果を踏まえて、以下に翻刻本文と校訂本文及び訓読文を再掲する。翻刻に誤りがあった為、変更した箇所がある。
 
翻刻本文】
631然
632後者難恨其伺情不忍恋心因治養其御子之縁附其弟玉依毘
633売而就歌之其歌日阿加院麻波袁佐閉比迦礼梯斯良多麻能
634岐美能何余金曾比斯多布斗久阿理郡理余其比古遅答歌日
635意岐都登理加毛度久斯麻迩和賀葦泥斯伊毛波和須礼士余
636能許登基登選故日子穂々手見命者坐高千穂宮伍佰捌拾歳御
637淩者即在高千穂山之西也是天津日高日子波限建鵜葺草不
638葺不令命娶其姨玉依毘売命生御子名五瀬命 次稲泳命 次御
639毛沼命次若御毛詔命亦名豊御毛沼命名神倭伊波礼毘古
640今故御毛沼命者跳浪穂渡坐手常世国稲氷命者為姓国而
641入坐海原也
 
【校訂本文】
631然
632後者難恨其伺情不忍恋心因治養其御子之縁附其弟玉依毘
633売而献歌之其歌日阿加陀麻波袁佐閉比迦礼梯斯良多麻能
634岐美能何余曾比斯多布斗久阿理郡理余其比古遅答歌日
635意岐都登理加毛度久斯麻迩和賀韋泥斯伊毛波和須礼士余
636能許登碁登選故日子穂々手見命者坐高千穂宮伍佰捌拾歳御
637陵者即在高千穂山之西也是天津日高日子波限建鵜葺草不
638葺不合命娶其姨玉依毘売命生御子名五瀬命次稲氷命次御
639毛沼命次若御毛沼命亦名豊御毛沼命名神倭伊波礼毘古
640命故御毛沼命者跳浪穂渡坐于常世国稲氷命者為姓国而
641入坐海原也
 
【訓読文】
しかれども後は、その伺ひたまひし情を恨みませども、恋しき心に忍びずて、その御子を治養しまつる縁に因りて、その玉依毘売に附いて歌を献りたまひき。その歌に日く、
赤玉は をさらへ光れど 白玉の 君がよそひし 貴くありけり
爾くして、その比古遅、答へて歌ひたまひて曰く、
沖つ鳥 鴨どくしまに 我が率寝し 妹は忘れじ 世の悉に
故、日子穂ゝ手見命は、高千穂の宮に坐すこと、伍佰捌拾歳。御陵は高千穂の山の西に在り。
この天津日高日子波限建鵜葺草不葺合命、その姨玉依売命を娶ひして、生みませる御子の名は、五瀬命。次に稲氷命、次に御毛沼命。次に若御毛沼命、またの名は豊御毛沼命、またの名は神倭伊波礼毘古命。故、御毛沼命は、なみの穂を跳みて常世の国に渡り坐し、稲氷命は、妣の国として、海原に入り坐しき。

アドバイスとまとめ

はい、ここまで掛かって漸く、翻刻と校訂本文、訓読文が完成しました〜(絶望)

こんだけ使って書けたのが前置きって辛いですね。

実際のレポートではこの後、考察に入るのですが…さすがに書ききれないのでここまでにします。

学生の皆様に言いたいのは初手JAPANナレッジって事です。真っ先にJAPANナレッジ、その後のことはそれから考えよう…とりあえず読むしかないのだ。

和歌は好きなのですが上代文学との相性が私はあまりよくなかったようです。辛かったぁ。

ただ一度でも万葉仮名や変体仮名に触れると近現代以降の作品は何でも読みやすく感じます。同年代の文献、資料を漁らなくても文字が特定できる喜び。一つの音にいくつもの漢字をあてるなや!と頭を抱えなくて済みます。文豪ののたうち回ったミミズのような文字で書かれた草稿を見ても、まだ楽なほうだと喜べるようになります。

自分の意志で上代文学を専攻した方へ、私のブログは何の役にも立ちません。

自分の意志ではなく上代文学を専攻してしまった方へ、ドンマイ、頑張れよ、こんなんでよかったら使ってくれ。

ここまで読む方はいるのでしょうか?研究者が見て怒らないとよいのだけど笑

クレームはいつでもうけつけています。ご指摘ありましたら遠慮なくご連絡ください。

それでは今回はここまで。おやすみなさい。

 

 

📚夏にオススメしたい一冊

こんばんは、蒸し暑い日が続きますが、皆様お変わりはありませんか?

私は相変わらずです。就活……うっ…頭が……笑

今週のお題は梅雨入りした地域があることに関連して「雨の日の過ごし方」だそうです。

(そんなの読書に決まっておろう!!!!!!!というか雨の日に限らず読書をするべし!!!!!!!それ以外何があるんじゃ!!!!!!!)

はい、お題について長々と語れる自信しかないのですが、別のことをお話しするためにパソコンを開いたのでそれはまた今度。

さて今回は、文学部で学び書店員をしている読書好きがオススメする本、第一弾!

私は書店のPOP担当をしているのでよく本の紹介文を書いているのですが、ブログには載せたこと無かったなぁと思い…現在手に入るおすすめの本を紹介しようと思います。

経緯をお話ししますと、勤め先の書店の売り上げがスレスレのギリギリで私にできることといえば店内のポップを増やしたりブログを書くことくらいなのでどうにか出来ることを!と一筋の望みをかけて企画してみました。

このブログを開く方は文字を読むことに抵抗はないと思うので、もし刺さったらお近くの書店でお買い求めいただけたらと思います(ハードルを自ら上げる)(切実な叫び)  

記念すべき一冊目のテーマは「夏」

夏が近付いてきたので夏に向けて読みたい本、暑さから開放される本が良いかなと考え、思いついたのは大大大好きな作家、乙一さんの作品です。

私は乙一さんの大ファンで乙一名義で出た本は殆ど読んだと思います。

作品によって雰囲気は変わりますが、私は乙一さんの書く仄暗い童話のような世界観に惹かれています。

そして読了後の言葉では表せない気持ちの悪さが堪らなく好きです。

そんな乙一の「夏」と言えば間違いなくこの1冊。

ネタバレになるので詳しいことは言えませんが、皆様が乙一ワールドに引きずり込まれてもう戻って来れなくなれば良い。

机の上には冷たい麦茶と積んだ本。その中の一冊に手を伸ばし1頁目を開けばきっと読む手が止められない。

開けた窓から噎せ返るような夏の匂いが部屋に流れ込むように感じるでしょう。

この本を片手に静かな夏の夜を過ごして欲しい。

 

貴方の夏にじっとりとした涼しさを。

 『夏と花火と私の死体』

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↑POPイメージ

実際はPOPの文が長いと読んでもらえないので二行くらいになるのですが…このくらい書きたいと常に思っています。

如何だったでしょうか?興味を持って頂けたら嬉しいです。

私は小説も新書も伝記もライトノベル漢詩も和歌も読みますが、読みやすく個性的で魅力的な作家で真っ先に思いつくのは乙一なんです。

『夏と花火と私の死体』は乙一のデビュー作。乙一を知るならここから。きっと乙一が好きになる。

どうか手に取っては頂けませんか?

 

書店でお求めの際は下記の情報を書店員にお見せ下さい。

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ここまで読んでくださりありがとうございました🧸📖

 

乙一の『ZOO』について以前紹介したことがあります興味のある方は其方もぜひ!