あまがさの日記のようなもの

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✏️堤中納言物語「虫めづる姫君」

今晩は。数年前に書いた「虫めづる姫君」についてまとめたメモのようなものがあったので貼っておこうと思います。

(引用→私の感想、の繰り返しです)

概要

虫めづる姫君」は、古典には珍しい短編集『堤中納言物語』の中の一編である。王朝の姫君のありようとは異なった、毛虫が好きな変わり者の姫君を主人公とする。(今村みゑ子『「虫めづる姫君」論』より引用。)

蝶の好きな姫君の隣の邸に安察大納言の邸があり、この邸の姫君は、物の本体こそ心ばえがあるものと思い、蝶の本体である珍しいさまざまな毛虫ばかりを集め、年ごろになっても化粧さえせずにいた。両親も侍女たちも困惑するのだが、陰口も何のその、姫君は男童を使って虫を採集するのであった。

とうとう世間の評判になって、右馬佐という上達部の息子は帯の端を蛇の形に似せて動くような仕掛けをして、鱗模様の懸袋に入れて文を送るといういたずらを試みる。姫君は恐ろしいのをこらえながら、贈り物についていた歌を詠み、無風流な厚紙に片仮名で返歌をする。物好きな右馬佐は風変わりな、この様子に面白いと思い、友人の中将とともに卑しい女の姿に変装して立蔀の陰から垣間見をする。姫 君は評判通りで、あきれはてて、姫君の姿を見たという歌を贈って、笑いながら二人は帰った。(『鑑賞 日本古典文学 第十二巻 堤中納言物語 とりかへばや物語』より引用。)

上記からもわかるように、当時の女性のステレオタイプから脱却した個性的な生き方をする姫君と周囲の物語である。

特色

姫君は、良く言えばとても個性的で、悪く言えば変な人である。蝶ではなく毛虫を好み、眉のお手入れもしなければ、お歯黒もしない。当時の常識から考えると、彼女の存在はどこまでも非常識であり、周囲からすると受け入れがたい存在であろう。でも、ただの変人なのかというと、決してそうではないところに、彼女の魅力がある。(菊池 杏子『「虫めづる姫君」との出会い』より引用)

姫君には一貫した論理主張があり。それは「物の本当の姿を知ってこそ心が深い」というものである。そして「本当の姿」とは、「変化する」ということである。事物・事象は「変化する」という見方が姫君の根本にある。(今村みゑ子『「虫めづる姫君」論』より引用。)

虫めづる姫君」の姫君は、良く言えばとても個性的で、悪く言えば変な人である。蝶ではなく毛虫を好み、眉のお手入れもしなければ、お歯黒もしない。当時の常識から考えると、彼女の存在はどこまでも非常識であり、周囲からすると受け入れがたい存在であろう。でも、ただの変人なのかというと、決してそうではないところに、彼女の魅力がある。私はきっと、彼女の魅力に魅せられてしまったのだと思う。

「恋は盲目」とはよく聞く言葉で、別にこれは恋ではないが、とある人の中に自分にとってとても好ましい部分を見つけてしまったとき、その人の欠点というものは誰しも見失うものではないだろうか。

私は、彼女の言葉に好ましさを感じ、人としての魅力を感じた。毛虫を好むことにも、化粧を嫌うことにも、彼女らしいもっともな理由があり、彼女はそれを譲りたくないだけなのだと知ったとき、何だかとても愛しく感じてしまったのである。たしかに、毛虫を好むことや化粧をしないことは、彼女の女性としての魅力を損なうことかもしれない。しかし、それが彼女の人としての魅力を損ねているとは私には思えなかったのである。(「虫めづる姫君」との出会い(菊池 杏子)より引用。)

引用からもわかるように、一般的な考えに流されず己を貫く女性像は現代でも憧れられるもので、当時の女性としてとても珍しいものであった。

その珍しい姫君の中に美しさを見出すことが出来た男も、固定概念に囚われない柔軟な思考を持った人であったとわかる。

諸論

先行研究において、虫を愛でたり化粧を拒んだりする行動は、単に異例な行動として否定的に捉えられてきたが、姫君の言葉を検討すると、表面的に変化した事物への一時的な評価を忌避し、事物の根源を探究した上での判断を重視する信念に基づくものであることがわかった。また、作り物の蛇を贈られた時と垣間見された時の、一見一致していない様に思われる反応は、恐怖や羞恥で狼狽しながらも感情を一切口にせず、見た目という表面的な姿形ではなく人や事物の本質的な部分による判断を重視するという信念を述べ、実践しようとしていると考えられる。(庄野彩霞『「虫めづる姫君」の主題』より引用)

姫君の言葉の中でも、特に好ましく感じたのは、「人々の、花、蝶やと愛づるこそ、はかなくあやしけれ。人は、まことあり、本地尋ねたるこそ、心ばへをかしけれ」「ひとはすべて、つくろふ所あるはわろし」(『鑑賞 日本古典文学 第十二巻 堤中納言物語 とりかへばや物語』より引用。)という部分である。はじめてこの物語を読んでみたとき、「表面的なものを好み、その物事の本質を知ろうとしないなら、それを好きだとは言うな」「なぜ(化粧などして、わざわざ)装わなければならないのか」と、なんとなく空気を読んで周囲との歩調を合わせようとしている私自身に言われた気がしたのである。この物語における彼女の行動や描かれ方は、当時の人々にとってはへりくつで滑稽なものであったかもしれない。(「虫めづる姫君」との出会い(菊池 杏子)より引用。)

当時の感覚では、こんな姫君はありえない、存在しない、とフィクションとして捉えていた可能性も高いが、現代において姫君の生き方は決して不可能ではなく、自立した思考の女性の理想とすることが出来る。

滑稽な姫君の物語としてではなく、かっこいい女性の物語として、時代を超えて様々な愛され方をする作品と言えるのではないだろうか。

参考文献

今村みゑ子『「虫めづる姫君」論』

野村倫子『「堤中納言物語」「虫めづる姫君」の世界』

福田景道『虫めづる姫君の異能性』

小島 雪子『「虫めづる姫君」と仏教』

井上 新子『「虫めづる姫君」の変貌』

庄野彩霞『「虫めづる姫君」の主題』

菊池 杏子『「虫めづる姫君」との出会い』

大したことは書いていませんが、誰かのお役に立てていたら嬉しいです。