あまがさの日記のようなもの

書きたい時に書く日記のようなブログです。

✏️芥川龍之介『蜘蛛の糸』

今晩は。夏休みになり投稿頻度がかつてないほどに高まっている雨傘です。

今回は、芥川龍之介蜘蛛の糸』について書いたレポートが出てきたので載せようと思います。

始めの方は蜘蛛の糸の草稿や内容についての説明、先行研究の紹介です。最後に私の拙い考察があるので、芥川の書き間違いとか草稿にあるメモの内容なんて興味ないよーって方は考察まで読み飛ばすと良いかと思います。

そして縦書きで書いていたものなので(ブログに貼ったことにより)表記が変わっているところがあります。読みにくいかもしれませんが御容赦ください。

正直、文字は縦書きの方が早く読めるので縦書きが好きなのですがブログだとそうもいかないので悩ましいですね。

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芥川龍之介の手書き原稿です。(著作権は70年で切れるので大丈夫かと思って載せましたが、若しかするとダメかも…)問題ありましたら即削除しますのでご指摘ください。

転写稿


蜘蛛の糸
芥川龍之介                     

五 一
六 或る日の[事→こと](鈴木)でございます。[御→お](鈴木)[不明→削除]釈迦様は極楽
七 の蓮池のふちを、独りで[ナシ→ぶらぶら→削除] [ナシ→ぶらぶら]御歩きになつて[居り→いらつしやい]
八 ました。[ナシ→ (改段)](鈴木)池の中に咲いている蓮の花は、みん
九 な玉のやうにまつ白で、そのまん中にある金
十 色の蕊からは、何とも[云→言](鈴木)へない好い匀が、絶
十一 間なく[漂つ→あたりへ溢れ]て[参→居]りま[す→した→削除→ (イキ)→
した]。[【ナシ→ (改段)】ナシ→□極楽は丁度朝【なの→削除】でございま【せう→し た 】。] (鈴木)[□→ナシ](鈴木)
十二 [ナシ→やがて][御→お](鈴木)釈迦様は[ナシ→その]池のふちに御佇みに[なすつて→にな【りながら→って】]
十三 、水[ナシ→の]面を蔽つている蓮の葉の間から、ふと
十四 下の容子を御覧になりました。[ナシ→ぶらぶら→削除]この極楽の蓮
十五 池の下は、丁度地獄の底に当たつて居りますか
十六 ら、水晶のやうな水を透き徹して、[針→ナシ]三途の
十七 河や[賽の河原→針の山]の景色が、丁度覗き眼鏡を見る
十八 やうに、はつきり[ナシ→と]見えるのでございます。
十九 するとその地獄の底に、犍陀多と云ふ[大泥棒→男]
二十 が一人、外の罪人と一しよに蠢いている姿
 

バリアント

・草稿七行目
草稿 ぶらぶら
赤い鳥 ぶら〳〵
傀儡師 ぶら〳〵
・草稿七行目
草稿 御
赤い鳥 お
傀儡師 お
・草稿十二行目
草稿 ふち
赤い鳥 縁
傀儡師 縁
・草稿十五行目
草稿 丁度
赤い鳥 丁度
傀儡師 まるで
 

書誌・印刷関係事項

・八頁より十三頁まで
・二段ヌキ カツトの中へ組出。カツト巾一寸五糸 長五寸八糸
・五号 二段組
・総ルビ
・五号 ゴシク
 

蜘蛛の糸について

発行年月日:雑誌『赤い鳥』大正七年七月一日/単行本『傀儡師』大正八年一月十五日
発行所(出版社):雑誌『赤い鳥』赤い鳥社/単行本『傀儡師』新潮社
 

語句の注釈

 蜘蛛の糸
くものいと 蜘蛛の垂らした糸
 釈迦  
しゃか 仏教の開祖で古代インドの仏教の開祖、名前はゴータマ・シッタルタという。用例:釈迦に説法
 極楽  
ごくらく 極楽浄土の略。天国。用例: 極楽の余り風
 三途の河
さんずのかわ 冥土への途中にある川。死んでから7日目に極善、極悪ではない人が渡ると言われている。別名は三瀬川、三途川等がある。
 賽の河原     
さいのかわら 冥土への途中にある河原。三途の川の河原のことを指す。
 針の山  
はりのやま 地獄にあると言われている一面に針が生えている山。
 犍陀多 
かんだた 蜘蛛の糸の主人公。地獄で他の罪人と共に蠢いている。
 

童話『蜘蛛の糸』における草稿の位置

冒頭部分に位置している。あらすじは「或る日の朝お釈迦様が独りで極楽にある蓮池から地獄を覗きみていると犍陀多という男が他の罪人と一緒にいる姿が見えた」という内容である。

 

時、所、人物、語り手、作品内における役割

時:或る日の朝
所:極楽にある蓮池
人物:お釈迦様、犍陀多
語り手:不明。第三者視点で書かれているが釈迦に対しての敬意が言葉遣いから察することが出来るので釈迦よりも身分の低い人物だと推測できる。
作品内における役割:物語の導入部分であり状況説明をしている。

 

草稿の作家における位置

童話を書くことに慣れていなかった芥川龍之介の新たな可能性を見つけることが出来た作品と言える。蜘蛛の糸を執筆後、児童文学作品も生み出している。
 

評価史・先行研究等

ア、同時代評 
三重吉は「芥川が世間で持て囃されるのは当たり前だ。まるで外の奴等とはモノが違ふ。(赤い鳥)始まつて以来、こんな傑作を書いた奴は一人もいやしない」と高く評した。

しかし、正宗白鳥は「極り切った秩序ある世界をやすやすと受入れて、そこに何等の懐疑の苦を感じていない」「ストーブで温められた温室的書斎での仮寝の夢に過ぎないやうに思はれる」と否定的な意見を述べた。

イ、作家の自己言及 
七十五箇所に及ぶ添削を経て公開された、赤い鳥創刊号を手にした龍之介は「どれを読んでも私のよりうまいやうな気がします 皆私より年をとつていて小供があるからそれで小供の心もちがうまくのみこめているのだらうと思ひます」「鈴木さんのは仮名と漢字の使い方ばかりではなくすべてがうまいやうです とてもああは行きません」と述べており、子供を読者として書く必要のある童話に慣れておらず難しかったのだと思われる。

ウ、先行研究 
①     
草稿箇所について関口論では、明るい極楽と暗い地獄の形容に比喩を用いながら二項対立させていると述べている。
又、関口論では過小評価されてきた「蜘蛛の糸」を再評価するべきだと述べている。テーマ主義的な読みは道徳教材化を行い、文学としての面白さを損ねていると考えている為、見事な視覚や嗅覚に訴える情景描写や詩的表現を抑えた上で人間存在の根源を問う読み方を肯定している。犍陀多の喚きや行動が読み手を含む人間全体の問題となり人間の生まれながら負う罪と実在する問題が浮上する事で、子供たちにも理解出来る人間の醜さや哀れさを表現していると考えている。

草稿箇所について言及している先行研究として、山本欣司の『芥川龍之介蜘蛛の糸」を読む』から引用する。

浅野洋氏は冒頭の「極楽は丁度朝なのでございませう」について、「『なので』という説明的な判断を含む推量形――は『極楽』が『朝』だという ことが語り手の推測する一解釈にすぎず、必ずし も事実そのままの記述ではないことを暗示する。」 「現在形を軸とする芥川の原文が『説明の時制』 の優勢な文体」であり、それは「物語内の事象を相対化し、近代的な合理性を超越した物語世界固有の構造に亀裂を生み、その非合理をあげつらう論理(理屈)が介入する道を開く」(傍点ママ)文章だと指摘する。ところが、本当にこの「極楽は丁度朝なのでございませう」という表現が、そのように機能しているか検討してみると、必ずしも浅野氏の指摘するようにはなっていないことがわかる。「蜘蛛の糸」冒頭の段落と最終段落とが、似通った情景描写になっていることは誰しも気づくところである。白い蓮の花が咲き、好い匂いが溢れる、まさに極楽というべき光景には、時間を示す要素が欠落している。ところが、「『なので』という説明的な判断を含む推量形」で語られているにもかかわらず、「丁度朝」という冒頭から、末尾で「午に近くなつた」という時間の推移を疑う読者はいない。文体論的には、浅野氏の指摘は正しいにもかかわらず、この小説が午前中いっぱいを費やして演じられたドラマであるということ自体は疑われることがないのである。それは、物語全体から受ける印象と、「推量形」でありながらも語り手の提示する情報との間に齟齬がないからである。実際のところ、読者は矛盾を感じない限り、不安定な「現在形」や「推量 形」で書かれていても「理屈」をこねたりしない。 極楽の時間が、朝から午近くまで経過した「のでございませう」と語られていても、犍陀多が蜘蛛 の糸を上るのに費やした時間がちょうどそのぐらいかかったと納得したなら、誰も疑問をはさまないのである。

芥川龍之介蜘蛛の糸」を読む』山本 欣司   弘前大学教育学部紀要 第98号:1~9(2007年10月)
 

考察

芥川龍之介蜘蛛の糸』における語り手について

蜘蛛の糸」で語り手は不思議な存在である。物語は語り手によって始められ語り手によって終わる。そんな終始存在感のある語り手について考察する。
  初めに語り手の話し方を見ると、犍陀多に対して敬意はなく「蠢いている」「喚く」などの言葉が躊躇いなく使われている。

これは犍陀多が犯罪者である事や釈迦の垂らした蜘蛛の糸を無駄にする人間性への批判の表れなのでは無いかと考えた。一方で釈迦に対して尊敬語や丁寧語を、読者に対しても丁寧語を使っている。言葉遣いから釈迦に敬意を持っていることは明らかであると思えたが、読み始めて直ぐに登場するぶら〳〵という言葉に違和感を抱いた。

歩くという表現ではなく敢えてぶら〳〵を敬意を表する対象に使う必要はあるのだろうか。違和感を抱いたまま読み進めると三章でまたぶら〳〵という言葉が登場した。

作中に二度も登場するこのぶら〳〵について、『芥川龍之介蜘蛛の糸」の「ブラブラ」を読む : 道徳教材化を拒む作品の文体について』(<特集>批評する文学教育 1993 年 42 巻 8 号p. 36-43)で樋口佳子先生は

もちろん釈迦という特別な存在に対して敬う気持ちがあるからであろうが、以上述べてきたように「ブラブラ」に注目してみると、どうも敬いの気持ちだけではないように思える。少し視点を変えてみると、敬語というのは相手と自分の間に一つの壁を作る。それぞれの領域に踏み込ませないよう、あるいは踏み込まないような作用をするものである。その多用が何を生むかというと、敬いの気持ちは消え失せ、逆に相手を卑下したり、つき放したりする意味を持ってくるのである。

と述べた上で釈迦の行動を通して、

「傍観者的慈善行為に対する芥川の批判の目」が書かれていると言ってもいいのではないか。

と述べている。樋口先生の考察と私は同意見でありそれを踏まえて考えると、語り手は意図して違和感を抱かせるような「ぶら〳〵」という言葉を使っており敬語もその一環であると言うことになる。第三者である語り手は実の所は釈迦に対して救いの手を差し伸べる慈悲深い存在というイメージを持っていないのでは無いかという疑惑が持ち上がる。
 
 次に語り手と登場人物の関係についてであるが、作中語り手は第三者視点で話し続けるので直接登場人物との関係はない。

第一章冒頭の「或る日のことでございます」という時間についての説明や「この極楽の蓮池の下は、丁度地獄の底に当たつてをりますから」という場所の説明、「犍陀多と云う男が一人、外の罪人と一しよに蠢いている姿が、お眼に止まりました」という登場人物の現状や、登場人物の過去に起こったことなどを事実として述べている。

第二章も引き続き語り手は登場人物の気持ちを代弁つつ事実を述べている。目の前に蜘蛛の糸が垂れてきた犍陀多が「この糸に縋りついて、どこまでものぼつて行けば、きつと地獄から抜け出せるのに相違ございません」と思ったと述べているのである。

そして第三章では蜘蛛の糸が切れて地獄に逆戻りした犍陀多を見た釈迦の気持ちを「浅間しく思しめされたのでございませう」と述べているが推測の形を取っている為、実際に釈迦がどう思ったかは読者に伝わらない。

第一章、第二章で事実を述べ登場人物の気持ちを代弁していた語り手だが、何故か第三章では釈迦の気持ちを想像している。

この不自然な語り手の変化について『芥川龍之介蜘蛛の糸」を読む』(弘前大学教育学部紀要. 98, 2007, p.1-9)にて山本欣二先生は、

一章・二章と自由に釈迦や犍陀多の内面、過去 の出来事を語ってきた全知の語り手が、三章で突 然、特権を放棄し、釈迦の内面に踏み込むことが できなくなったと考えるのは不自然である。
二章後半から読者が読み取った意味と、三章で指定された意味の間に齟齬が感じられなければ、語り手が過去形で断定しようが「推量形」で説明しようが、語られたことへの信頼が揺らぐことはない。

と述べている。語り手の言葉が絶対になる作中の時間の流れについても同じように

物語全体から受ける印象と、「推量形」 でありながらも語り手の提示する情報との間に齟齬がないからである。実際のところ、読者は矛盾を感じない限り、不安定な「現在形」や「推量形」で書かれていても「理屈」をこねたりしない。

と述べており、語り手は全知全能で特権を持っていると述べている。しかし私は山本先生の考えとは違い、語り手は第三章で釈迦の気持ちを代弁せず推測しているのは「しなかったから」では無く「出来なかったから」であると考える。

三章で釈迦の心を代弁をしない事により語り手の力は全てを把握するものではなく、実際は一章二章で語ってきたような表面的な事実のみ知っているのだと解釈できる。又、仏教の開祖である釈迦の内面を理解できていないが故に、ぶら〳〵という言葉を使う程度の敬意しか持てていないのではないかと考えた。
 
最後に語り手と読者の関係について考えると読者に語り手が物語を語るという一方的なものであり又、蜘蛛の糸において書き手の意志を一番反映しやすく書き手の伝えたい事を読者に伝えるメッセンジャーでもあると考えられる。

作者である芥川龍之介が語り手に何を語らせたかについて『「蜘蛛の糸管見--童話と小説の間』(大学紀要 文学・芸術・文化 22(1), 1-17, 2010-09)にて中田睦美先生は、

初めは〈童話〉をめざし、子供たちに向けてエゴイスティックな我執を戒めるメッセージを伝えようとした芥川だったが、テクスト自体の 文脈や時制に浸潤した近代作家(小説家)としての本性はしだいに抑え難く、やがて心象風景と重なる情景描写に力を注ぐ結果となった。それと同時に、自作の第一の読者でもある 作者は〈童話〉としてのメッセージとは全く逆に、我執が 決して超えられぬ人間の本質であることからも眼をそらすことができなかった。それと同時に、第一の読者でもある作者は、〈童話〉としてのメッセージとは全く逆に、我執が決して超えられぬ人間の本質であることからも眼をそらすことができなかった。

と述べている。語り手により物語の始まりは極楽の鮮やかで美しい描写がされ、中頃は犍陀多が蜘蛛の糸に縋り付くも地獄に落ちるというハプニングが起き、終わりには何事も無かったかのように美しく良い香りが漂い続けるという表現がされている事からも、情景描写にこだわった芥川龍之介の意思が語り手に強く出ていることが分かる。
 
 以上のことから語り手は作者の考えを反映した進行役であるが全知全能ではなく、それ故に読者に考察の余地を多く与える「蜘蛛の糸」において必要不可欠な存在であると考える。
 

こんな感じです。芥川の文字は読みやすい上、先行研究も多くあるので興味のある方が勉強しやすくて良いですよね。

拙いレポートではありますが、興味を持って覗いてくださった方の助けになればと思います。

今読むと「いや、もっと上手く書けるだろ…」と思ってしまうレポートではありますが、締め切りに追われた私にはきっとこれが限界だったのでしょう。反省、反省。

そして!!!お気づきの方もいるかもしれませんが、ついに目次をつけることに成功しました!

長々としたブログもこれで読みやすくなったのではないかなと思います✌️以前書いたブログにも目次をつけた方がわかりやすい回が多々あるので少しずつ修正します。

このブログを読み返して楽しむ猛者が居るかは分かりませんが、少しでも読みやすいブログにしたらファンが増えるかもしれませんしね笑

はい、少し長くなりましたが、芥川龍之介蜘蛛の糸』についてのレポートでした!

お読みいただきありがとうございました。