あまがさの日記のようなもの

書きたい時に書く日記のようなブログです。

日記のようなもの

今晩は。お気に入りの革の手袋をクローゼットから取り出し、紳士的な装いの準備は万端な今日この頃です。

さて、今回は今週のお題 「読書の秋」に挑戦します。

本は読みまくっているからなぁ…何にしようか…と思ったら…良いところに日記が。

日記を読むのも読書です(断言)

という事で、今日は幼いころからずっと私が書いていた日記のようなものについて話そうかなと思いました。

本の紹介は以前にもしていますし、これからもする予定なので今回はしません!小説紹介をお求めの方はここでブラウザバックをお願いします。

今回話す「日記のようなもの」はただの日記ではありません。

悲しいこと、辛いことがあったときにのみ書く、私にとって唯一本音を書きだせる場所だったものです。

私の心の叫びであり、記録であり、当時の私が過ごしていた世界の狭さを理解させられるものです。

苦手な人も多いかと思うので気分が悪くなったら、直ぐに読むのをやめてくださいね。

日記には楽しいことは一切かかれていません。書きなぐり、強い感情で歪み、涙で滲んだ文字しかありません。刃を突き立て切り刻まれていたり、破かれているページばかりで表紙以外はボロボロです。

そして一冊ではありません。何冊にもわたりこんな大人にはなるまい、死にたい、この場から逃げたい、早く楽になりたい、私が死ぬときはこれを抱いて眠るんだ、と書き連ねています。

それらを書かなくなった今でも読み返し、いつまでも忘れないようにしているんです。十年前の私を裏切らない人間であり続けたい。そう思いこの歳まで生きてきました。

「あまがさの日記のようなもの」は他人に読まれることを前提にしていますが、そうではないので少し刺激が強いかもしれません。

今日、目に止まったのはまた思い出さなきゃいけない時期が来たからなのでしょうね。

一人で見て満足することも出来るのですが…誰かに、いつかの私が思っていたことを共有したいのでここに載せます。

狭い世界を生きてきた全ての元子供に、自分はなぜこんなつらい思いをしなければならないんだと絶望した人に、死ぬ勇気がないのが情けないと自分を責めたことがある人に宛てて書きます。

「こんな大人にはなるまい」と思っていた大人にならないで欲しい。今なっていないか見つめなおしてほしい。

幼いころの自分に今は幸せだと、その苦痛から逃れられると、抵抗できるだけの存在になったと誇れるように生きていてほしい。そしてここまで生きられなかったすべての人への哀悼の意を捧げます。

先にいくつか注意事項を書いておきます。

  • 親を悪く言うなという意見があることも知っていますが、虐待で死んだ子供の墓の前で同じことを言える方だけコメントしてください。
  • 世界に幸せな家庭しかないと信じたい人はここで読むのをやめてください。
  • 自分の苦しみと比較して感情が荒立つ人は読むのをやめてください。

ご了承いただけた方のみお進みください。

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関係の無い画像でワンクッション。

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数頁だけ日記を公開。さすがにそのままだと気持ち悪いと思う方も多いと思うので少しぼかして貼ります。

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文字が太くなっているのは全部涙による滲みです。味がありますね。

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滲んでるのが伝わりやすいかなと思って、別ページを拡大撮影したものの…普通に気持ちが悪い。

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これは油性ボールペンで書いてた時のやつ。書いた後に彫刻刀でノートをグサグサと刺していたので彫刻刀の跡も写っています。思い出ですね。

こんな感じの内容の日記が数冊あります。悲しい時に書く用なのでページをめくる度にこんなことあったなぁと悲しい出来事が蘇り、よく頑張ったなぁと自分を褒めることができます。

悲しいことが起きる→嫌なことを書出す→読みながら泣く→ノートを滅多刺しにする→仕舞うの流れです。

耐えられない環境にいる方にはおすすめのストレス発散方法です。

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日記を見ながら思うことをつらつら書きますが、見るに堪えない可能性があるので読まなくて良いです。

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親が私の世界の頂点に君臨していて、親の庇護のもとでしか生きられなかった。親の意見が絶対で、感情は優先されるものではなかった。

約束とは、いつの間にか押し付けられた上に強要される逃れられないものだった。しかし親は破っても良く、理不尽で上から課されるものだった。

心配をかけさせることは悪だった。何か少しでも心配させることがあると怒られた。

家では常に笑顔で居なければならなかった。疲れた様子を見せると馬鹿にされたし怒られた。

意見は押し付けられるもので発するものではなかった。発言は許されなかったし親のミスは許さねばならなかった。

親に不満を持ってはいけなかった。少しでも顔に出れば怒鳴られた。

二か月に一度帰ってくる血縁者を愛さねばならなかった。彼に気に入られなければ人権がなかった。

私と何も向き合わず、何も知らないにも関わらず知っているふりをして怒鳴ってきたがそれを受け入れなければならなかった。

普段は酒に溺れ、ヒステリックに当たり散らす悪魔と二人きりで生活せねばならなかった。元食べ物だった炭、床に落ちたカレー、残すことは許されず床につくばり夕食を取ったこともあった。

酒は人の本性を現すものだと信じたくなかった。酒が本心を引き出すものならば私は愛されていないことを認めねばならなかった。

親に生かされているのに嫌われたら死ぬしかないと思っていた。だから嫌われるわけにはいかなかった。

逃げられなかった。誰も助けてはくれなかった。せめてもの抵抗に遠回りをして家に帰った。

酒を飲まねば穏やかな親だった。酒を飲まないでくれと懇願したが受け入れられなかった。

12歳の夏、親が朝まで帰らぬ日があった。学校帰りに鍵もなく、飲まず食わずで朝の三時まで家の前でずっと待っていた。

酒を飲み、暴れた親に床にたたきつけられた。押さえつけられたまま床で眠り、朝目覚めて親に「私のことが嫌いなの」と聞くと「服を買ってあげる」と。

愛していると言われなくてもよかった。洋服で買えると思われたのが悲しかった。

「酒を飲むのを辞めてくれ」と懇願したら「服を買ってあげる」と返された。ただ一言、酒をやめると言ってくれれば救われたのに。

世界は狂っていると思った、悪魔を殺してやろうかと何度も思った。でも悪魔がベットをワインで赤く染め、苦しそうに胃から酒を吐き出しているのを見たとき、死んでほしくないと思った。

意味が分からず混乱した。洗脳は解けない。

風呂場で親が汚したマットレスを泣きながら洗った。ワインの香りが充満した風呂場で自分は幸せにはなれないと確信した。

頼れる人は目の前の酒に狂った悪魔しかいないと。得体のしれない二か月に一度会う怒鳴ってくる存在とは暮らせないと、わかっていた。

今この文章を打っていて涙が止まらない。もう大丈夫になったと思っていたがそんなことはないようで驚いている。

傷ついている実感がない。十年前の私のほうが何十倍も悲しくて悔しくてつらかったので思い出すだけで涙が止まらないことが受け入れられない。

強くなれなかったと認めることはできない、私は成長した。体も大きくなり抵抗するすべを身に着けた。親とは良好な関係を築けている。なのに思い出すだけで前が見えなくなるのはなぜなのか。

毎日死にたいと思っていた。家に帰りたくなかった。空き瓶や空き缶の転がる悪魔のいる家は安心できる場所ではなかった。

優しい母に会えるのは月に何回かだった。その日を心待ちにして、その時が本物でそれ以外は偽物だと信じるしかなかった。

今ならそんなことはないとわかる。当時も本当はわかっていた。でも受け入れたら誰にも求められていないことを理解せざるを得ないから、認めるわけにはいかなかった。

学校や習い事が救いだった。明るく振舞えば笑顔を向けてもらえることが幸せだった。

本に逃げた。登場人物に入り込んで幸せを味わった。主人公になった時、私は世界に肯定されていた。

ネットに逃げた。私ではない誰かになりきって現実から目を背けていた。貧乏ながらも優しい家族に囲まれて暮らしている誰かになって家の様子をみんなに話していた。すべて妄想だったがその話をしている間は幸せだった。

心を壊せたら辛くなくなるのにと思うようになった。何年も悩んでいた。

そしていつからか何も思わなくなった。気づいた時にはそうなっていた。それからというものノートにはあまり書かなくなった。

大人になったのだと思った。誰にも期待しない。見返りも無償の愛も求めない。私自身だけは裏切らないようにしようと思った。

感情の波も穏やかになった。幼いころから喧嘩をしない子だったが、傷ついたり怒ったり落ち込んだりすることはよくあった。気づかれないように声を殺して泣くことが何度もあったはずだった。

しかし嫌だなと思いはすれど心臓に突き刺さるような痛みを感じなくなった。涙が出てもなぜ流れているのか感覚的にわからなくなり、辛いことがわからなくなった。

自分では気づかなくなったがストレスが体に出るようになった。蕁麻疹や白髪が生えてようやく何か嫌なことがあったんだと気づき、原因を探し対処する。

自分に起きたことを自分事として受け取れなくなり、常に第三者目線で見ているような感覚に陥るようになった。強くなったわけではないのだと思う。傷ついても気づかなくなっただけ。

いじめられていた時も親には頼らなかったし、正直いじめよりも家での生活のほうが辛かった。救いの手など差し伸べられなかった。

今の私は幸せである。家族仲は良く、友人も多く、学校もアルバイトも楽しい。

でも、定期的に思い出さなければならない。壊れてこうなったことを理解しなければ失敗してしまうかもしれない。

酒が人の本音を零させるなら私は、誘われた時以外は飲まない。人前で酔うことはしない。

意見を押し付ける大人にはなるまいと思っていたから今までもこれからも「自分はこう思う」という形を何があっても取り続ける。

私は愛されない。だからこそ私だけは私を好きでいたい。世界中に嫌われても不要だと言われても、私だけは私の味方でいたい。

私には価値があると自分に言い聞かせて何とか生きてきた。きっとこれからもそうだろう。

他者からの評価に重きを置いたりしない。私は私を愛する私に認められる私でありたい。そう生きれないならば価値がない。

私を歪めたものを特定することはできないが、壊したものは間違いなく親だろうと思うし、きっと間違ってはいないんだろうな。

それでも私は恵まれているのだろうと思う。それも忘れてはいけない。私は悲劇のヒロインではない。

何度も海外旅行に連れて行ってもらった。学費も生活費もすべて親に払ってもらっている。お小遣いも貰っているし、金銭的に苦労したことがない。酷く殴られたこともないし、育児放棄というわけでもなかったのだと思う。

ただ、幸せな穏やかな家族というには歪で、私の安心はここにはなかった。

両親と過ごしているここ数年は酒に狂う親にもほぼあっていないし、今そうなっても家を出ればよいだけだ。私の世界は広がった。

家がこんなに穏やかな場所になるなんてあの時からは想像もつかない。でもこの嘘のような日々に惑わされて忘れてはいけない。

苦しんだ日々を乗り越えて今がある。悩んだ過去の私の叫びを無視してはいけない。

私の苦しみを無かったことには出来ない。だから偶に「日記のようなもの」を読み返しては、幼い頃の私を慰めている。

よく書いた。お陰でそうはなるまいと何度も自分に言い聞かせられる。

私は今、幸せである。何度も言うが家族仲は良好で不満もない。

だから忘れたくなって、忘れそうになって、見たくないものから目をそらす都合の良い大人になりそうになってしまう。

人間の脳は嫌なことを忘れるようにできているのかもしれない。でも忘れてはならないから何度も繰り返し思い出して、壊れたはずの心が悲鳴をあげる。いつの間にか前が見えなくなっている。

これはいつかどうにかなるのだろうか。

親が子に酷いことをする作品が見れない。心臓に氷が刺さったような心臓を握り潰されるような痛みに襲われてしまう。映画も小説もゲームも。親が敵の作品を見ると怖くて怖くて、目と耳を塞いで蹲ってしまう。

克服するのは完全に忘れた時なのだろうな。覚えていて許すことはきっとないから。

私は自分が親になる姿を想像できない。恐ろしくてしたくない。親を悪魔と認識したあの日に私は親にはならないと決めたのである。

世の中には素敵な尊敬できる親が沢山いるのだろう。私の親も誰かから見れば良い親なのかもしれない。殴られないだけマシだろうと思う人もいるのかもしれない。

でも幼い頃の私が傷つき、壊れたことは間違いなく、今、親と良好な関係が築けて居たとて一生忘れることは無いのである。

親と子の健全な関係を今更築けたとしても壊れた物は元に戻らない。

酒に溺れる親が出てくる作品を、床に落ちた物を食べさせる大人が出てくる作品を、金で子供の機嫌を取ろうとする大人が出てくる作品を「見ること」すら出来なくなった。

私は読書が好きである。映画もオペラもミュージカルも好きである。

だがトラウマのせいでその大好きな趣味の幅すらも狭められてしまう。

数年前、新しく面白い映画が出たから見に行こうと誘われた。友人は一度見てとても面白かったからもう一度見るのだと嬉しそうにしていて、私も楽しみだと見る直前まで思っていた。

内容は良かった。良かったが酒に溺れる母や母が子供を洗脳するような描写が少しあっただけでスクリーンを見れなくなってしまった。怖くて怖くて、耳を塞いで下を向いて、席から立ち上がることも出来なくなってしまった。

心配したのであろう友人から膝をつつかれ、焦ってスクリーンを見上げるとそのシーンは終わっていて、その後は何とか見ることが出来た。が、心臓が早く大きく鼓動して、手や背中は汗で冷たく、鑑賞後も映画の感想を言える状態ではなかった。

これが一生続くのか。良い作品だったと思う。少し見れないところもあったが全体を通して伏線回収もしっかりとしていて、映像も綺麗で、魅せ方も美しく、完成された作品だったと思う。だがどうしても、あの描写があるだけで「もう二度と」観れなくなってしまった。

私は映画ならアクションとホラー、ミステリーが好きなのだが、ホラー映画を見て思うような「こわい」の次元を遥かに超える何かがある。

私の心臓の柔いところを無理やり握り潰して氷漬けにしたような、真っ直ぐ立って居られなくなるような思いがするんです。

この現象をなんと呼ぶのか私は知らないが、これは間違いなく壊されたからだろうと思う。

助けてくれ。今はこんなに上手くやれているのに偶にそれらに遭遇すると立っていられなくなる。上手くやれる大人になったはずなのに恐怖で動けなくなるのはどうしたら良いのだろうか。

私の呪縛は解けないのかもしれない。

世界中の親に伝えたい。

親である貴方自身が未完成であることを自覚して欲しい。

子供は親の所有物でも機嫌とるための玩具でもない事を理解して欲しい。

一人として独立した感情と考えを持っていること知って欲しい。

貴方の言動が子供にとって一生の傷になることを自覚して欲しい。

人は間違える生き物だから失敗もあるだろうが、その時は誤魔化さず子供に対して「独立した考えを持つ人間に対して」謝罪をして欲しい。

間違えたことを認めて謝罪をすれば、子供も理解しようと歩み寄るだろうし、関係に亀裂も入らなかろう。

当たり前に人に対してしていることを自分の子供に対してもやって欲しい。

その積み重ねが、子供の命と心を救うと思うので、どうかお願いします。

私は今、親と良好な関係を築いているが、それは私が壊れ、成長したからだと思う。

もし私が壊れなかったら上手くいかなかったかもしれない。恨みを抱き続けていたら良い関係を築けなかったと思う。

私は親を恨めなかった。されたことを思い返し続けられなかった。忘れては定期的に思い出す、そうやって生きてきた。忘れられなかったらきっと死んでいた。

親は子育てが下手だ。間違いない。親は私を愛しているのだろうと今ならわかる。

だが、私は愛されて育った自覚がないのだ。いくら愛されていようが、愛されていた自覚がなければ意味が無いのだ。

愛されているのだから許せ、と仮に言われたら私はきっと犯罪者になってしまう。きっと許せないだろう。

だから、誰かの親の皆様、これから親になる皆様には、愛情表現はわかりやすくはっきりと口と態度に出して欲しいとも伝えたい。

独自の表現方法で愛は伝わらないよ。誰から見てもわかるように口と態度に出さなければわからないよ。

そして愛は押し付けるものでは無いから、返ってこなくても怒ってはいけないよ。子供には自由がある。

親になったとしても貴方は未熟だよ。成人したから中身も大人になったとは限らないよ。

自分を見つめ直してくれ、自分と周りを大事にしてくれ。そうすればきっと幸せになれる。

世界中の子供たちに幸あれ。未来に夢を見れる環境であれ。

苦しんだ人が今、幸せに過ごしていることを願います。

これから苦しむ人が少しでも減ることを祈ります。

少し長くなってしまったけれど思いつくことは吐き出せたかな。

気持ちを落ち着けるためにも横になります。何故ここまで書いてしまったのか…後悔しないといいな。

でも書いておくことはとても大切だから。きっと良かったんだろう。今週のお題からズレている気もするが…良かろう。許される!

長々と失礼しました。今回はここまでにします。

良い夢が見れますように。おやすみなさい。