あまがさの日記のようなもの

書きたい時に書く日記のようなブログです。

楽な生き方

色々と思うことがあるので書きます。

楽な生き方について話そうと思います。具体的には自分を他人にどう見せるか、どう思わせるかが重要なんじゃないか?という話です。

私の悩みと友人の話。どうぞ。

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サムネはいつか行った猫カフェの写真。おやつに群がるねこちゃんと私。

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世渡り下手な友人、すごく怒られやすいし誤解もされやすいんです。
でもどうして自分が怒られるか、舐められるか全く理解していないから自分だけどうして…と嘆いていて事実を伝えるべきなのかどうか悩みに悩んで、少し生きやすくなるかもしれないコツを伝えたのだけど良くなかったかもしれないと今私も悩んでいます。

自分だけ何故か不利な目に会うと嘆いているんです。本当に難しい。

客観的に見たら違う事でも、本人にとって正しければ正しいから、私がそれを歪めるのは良くないのかなと思ったり思わなかったり。

ただ言わないと一生気づかず世の中を恨んで生きることになるんだろうなぁとも思うので、はっきり伝えるべきか迷ってしまうんです。

友人は友人自身が強く当られたり、怒られたりする理由に「失敗してしまったから」と言うのですが多分違うんですよね。

人は失敗する生き物だから多少は仕方ないし、失敗したことに対してはあまり強く怒られないかなと。まだ学生ですしね。私たちはまだ責任を負わされていない。

友人と同じ場面に私が遭遇しても、同じ結果を出してたとしても私は怒られないだろうし、後を引かないだろうと思うんです。

怒られるか否か、強く当られるか否かは、失敗したあとの対応の仕方や築いてきた人間関係が問題なのでは無いかなぁと思うんです。
友人の話を聞きながら、私が同じ状態になっても自分の出した結果に対してその判断をしないし、その回答をしないし、そうあるべきではないからそうしないとぼんやりと思い、だから浮かないし狙い撃ちされないんだなぁと思ったんです。

理由をつけるのは簡単だけど、原因はそこではないんだよと伝えたいと思いながら良くないかなと思い悩む夜。

周りの人は何もせず好かれた訳では無いんです。怒られない訳では無いんです。

見えないところで怒られないための努力をしている、が正しい。でもそれが見えない限りは「同じミスをしたのになぜ自分だけ怒られるの?」と思い続けることになる。

実はみんなはこうしているんですよ、と言わない限りは置いてきぼりにされてしまう。

その努力をしなくても周りが公平な人だけならば失敗をした結果だけを見て叱り、感情で対応に差をつけないので問題ないのかもしれないけれど人間はそんなに単純ではない。

同じミスを同時に二人がしてしまった場合、明らかに反省している方が注意も少なく済むでしょう。普段から親しく思っている人の方が怒られにくいでしょう。そういうことだと思うんです。

例えば何かミスをしてしまった時、ミスをしてしまった可能性がある時には直ぐに確認して、状況を報告する。

報告する時には相手の時間を使ってしまうのだからお詫びをして、先に結論を述べる。

「お忙しいところすみません、○○なのですが失敗してしまいました。申し訳ありません。」

そして、自分はこういう対応を取ろうと考えているがそれが正しいかどうかの指示を仰ぐ。

「○○の対処として△△をしようと考えています。〜さんの意見を伺いたいです。」

指摘、指導をされたら、目を見てはっきり謝罪をし、頭を下げ、復唱する、メモを取る等聞いている様子を印象付ける。

話が終わったら、時間を取ってくれた事に感謝した上でもう一度謝り急いで持ち場に戻る。

この流れを徹底すれば大抵の場合はめんどくさい事になりません。

特に重要なのは出来るだけ早く報告することと相手の目を見て話すことです。

と、色々と言いたいことはあるのですが…私がそれを言ってしまうと折角の彼女の良さが潰れてしまうのではないかと思いとてもとてもとても悩ましいのです。

私は友人のことを大切に思っているし、これからも仲良くしていたいと思っています。すごく魅力のある人だと思うんです。

私と本当に違う意識の持ち方をする人だから面白いし、染まって欲しくないと思う。

私は人と違うことはひとつの能力だと思っていて、友人はすごく力のある人だと思っています。友人の角を研磨して人と同じにしてなんの意味がある?尖っていることは才能だろう。

でも私が客観的な意見を言うと、とても素直な人だから染められてしまって、本人の独自の価値観を歪めてしまうかもしれないと不安なんです。

そして、彼女の中で敵だった人が実は敵ではなかったと分かったら辛いかもしれない。

友人は世界に敵対して生きている。憎しみや恨みを力に変えて生きているんです。

私はそんな友人の生き方も肯定しているし矯正する気は一切ないんです。幸せの形はそれぞれですしね。

メリバはひとつの幸せの形だと思っているからそれでいいんじゃないか?と思うんです。
今まで周りにいた誰も友人に「生きやすさ」を説かなかったということはそういうことなのでは?とも思うのです。

それとも周りは友人の世界に気付かなかったのでしょうか。

私は人より他人の価値観や考え方に興味があるという自覚があるけれど、鈍感な人でも気付くくらい、友人は尖っていると思うんですよね。

あんなに敵対して生きていくのは辛かろうと思うけど、その恨みを糧に生きていけるのだから強かだとも思う。ハリネズミ

私が友人を分析するなら、他人に期待しすぎているように思います。あと、他人は自分のことを見ていると誤解しているんだろうなとも思います。

他人は想像以上に自分のことを分かっていないので、口や態度に出さねば伝わらないってことを知らないのでしょう。まだ生まれて20年くらいしか経ってないし仕方ないのかもしれない。(私も同い年だけど)

表面上のものしか他人からは見えないんだから、内面と外面を一致させなければすれ違いが起きるのは当然なんですよね。

嘘が付けないのなら、外面を内面に寄せる努力をしないと。
他人から見て内面の感情と外面の感情が一致するように過ごさないと、誤解されるだけなんです。

ミスをして怒られた。内心反省している。でも反省していると周りに認知されなければ意味が無いのです。
失敗した後、この人は反省したんだな、と思われなければ失望される。
友人が内面、深く反省しているのは確かだけど、反省していることを伝えられていなくて周りより強く当られてしまう。
でもそれに気づかない。そして周りが伝える努力をしていることに気づいていない。

人の努力って周りから見て判断できなくて、だからこそ自分の位置を見誤ってしまったり、嫉妬したり恨んだりしてしまうのかなと思うんです。

私は自分の話をするようにしているけど、それは私の内面と外面を一致させる為でもあります。
私はこんな人間です!と伝えれば嫌な人は離れられるし、興味を持った人は近付いてくる。
他人が私のガワだけを見て中身を理解してくれるなんて思っていないから、自分から言葉を砕いて「自分はこんな人です」と言い続けます。

それを怠れば、私の可能な範囲を越えて期待したり夢を押し付けてくる人が寄ってくるし、その期待に応えられないと怒られたりするわけです。
等身大、とまではいかなくてもある程度までは見せた方が期待を裏切らなくて済むから人間関係は上手くいくと思うんです。

減点式よりも加点式の方が上手くいく。無理やり加点式の人間関係にするために必要な事だと思っています。

内面と外面の一致が難しいのかなぁ。よく見せよう、馴染もうとすればするほど乖離しているように見える。

過激な思想や価値観はある程度抑えた方が上手くいくけれど根底にあるものを偽るのは自分の首を絞めるだけだよとも伝えたい。

「嫌われるのが怖い」と言うけれど、全員に好かれる人なんて存在しないから、嫌われない努力をするのではなくて、自分を好いてくれる人を探す努力をした方が良いと思うのだけれど…それも伝えると説教じみてしまうかな。

自分の内面と外面一致させるというのは、本当の気持ちと一致させるという意味もあるけれど…それ以上に相手に与えたい印象を自分が表現することが重要だと思う。

例えば、楽しい話をする時は心が楽しくなかろうがなんだろうが、相手に楽しさを伝えるように「楽しそうに」「明るく」「笑顔で」話すべきだし、逆もそう。

態度と声色と話の内容を一致させる。実際の感情が平坦でも周りからは分からないんだし。

コミュニケーションとはそういうものでは無いのかな?と思うのだけれど、友人がそうしないということはそう生きてこなかったということなんだろうかと考えて、やっぱり言わない方がいいなと悩むんです。

苦労も沢山あったろうけれど、コミュニケーションに関して、自分から歩み寄る必要がない世界で生きてきたのに、私が何か言うのは良くないよなと思ってしまう。

私はお互いに歩み寄らないとダメな世界しか知らないのです。ツーカーの関係だとしても、いくら親しい友人だとしても言葉を尽くさねばすれ違うと思っているので常日頃から気をつけて生きているんです。

それをしなくても良いと思える場所で生きてきたというのなら、その美しい環境やそこで生きてきた綺麗な精神を汚すようなことはしたくない。

でも社会は汚いので歩み寄れない人は努力不足、無能、と切り捨てられてしまう。だから友人は人より強く当たられて、指摘されるのだろう。そして怒られた時に反省していると怒った側から認知されていないからより一層の強く怒られるのだろう。

私には原因がわかっているからこそ、友人に伝えるかずっとずっと迷っているのです。毎日、目を見てはっきり挨拶をするだけで、なにか指摘を受けた時にハキハキお礼を伝え頭を下げるだけで、目上の人が来た時は立ち上がって礼儀を尽くすだけで、話を聞く時に直立不動で目を合わせ軽く頷く、たったそれだけの事で生きるのが楽になるんです。

心の中ではこんな奴大嫌いだ!と思っていても、にこにこと笑いながら挨拶をしていれば他人は誤解するってことを知ったらとても楽になる。

でもそれはもしかしたら自分で気づくべきなのかもしれないし、誰かに言われて変わるものでもないのかもしれないし、その変化が友人の良いところを削ってしまう可能性もある。

人って難しいなぁ。

私は色々あって嫌う人には嫌わせておけと思うようになったし、私が私のことを好きだから、私のことを好きじゃない人は見る目がないと思うし、私を嫌いな人と無理に仲良くなる気がないです。

そして自分に自信がある人に文句をつける人は少ないので良い循環が生まれています。

私の周りには自分のことが好きな人が集まるし、自分のことを大切にできる人は周りの人も大切にできるので。何か問題があれば指摘してくれる良い環境に恵まれていると思っています。居心地が良いです。

今話している友人はネガティブで自己肯定感が低いから私の友人としてはとても異質なのだけれど、だからこそ本当に不思議で面白いんです。

友人が大好きだからこそ、その生き方を肯定している。でもそれは茨の道だからもう少し楽をしても良いんじゃない?と思う。でもそれを私が言うのは違うよな、とも思う。

正直にいえば共感できないところも多いです。でも理解したいと思い言葉を尽くしています。それが友人からどう見られているのかは分からないけれど歩み寄ることこそが距離を縮めると思っているんです。

私は自分に欠陥があることを理解しています。皆が当たり前に共感できる、共有できる価値観を持っていない。

なので世の中で共感できないことが沢山あって、でも共感できない時は共感できない事を正直に伝えるようにしています。

「私は貴方の考えに共感できないけれど、あなたのことを理解したいからもっと詳しく教えて欲しい」と言えば好感度ってそんなに下がらないと思うんだけど…どうですかね、難しいですかね。

みんなに好かれるために分からないことにも「分かる」と言い続けるのはストレスだし、相手からの信頼を裏切る行為にも繋がると思うからしない。

でもそれは私の生き方であって、友人に押し付けるものでは無い。

茨の道を進む友人に幸あれ。友人と同じ境遇にある人にも幸あれ。

もっと楽に生きれば良いのにと思うけど、多分上手くいかないのだろうな。

ただ毎日自分から挨拶するだけ、ただ様子と話の内容を一致させるだけ、目線を合わせて話を聞くだけ、真っ直ぐ立つだけ…そう私は思うけどそうではない人も沢山いるのであろう。

私が暗記が苦手なように、人それぞれ苦手なものがありますもんね。

このブログが楽な生き方に気づいていなかった人、出来るけれどやっていなかった人の目に留まり少しでも生きるのが楽になってくれたら嬉しいです。

この私の悩みが解決する日は来るのでしょうか。多分私は友人に何も言わないけれど、言うのが優しさなら酷い人になってしまうからそれも困ったなと思っています。

みなそれぞれの適したやり方で、生きるのが楽になりますように。

長々と失礼しました。今回はここまでにします。お読み頂きありがとうございました🧸