あまがさの日記のようなもの

書きたい時に書く日記のようなブログです。

彦星を想う

今晩は。寒い日が続きますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

私は冬休みは終わったものの大学に行くことも無く、ストーブに張り付いてパソコンを眺めたり読書をしたり…のんびりとした毎日を送っています。

さて、突然ですが皆様は万葉集をお読みになったことはありますか?

美しいものは心を豊かにすると思っているので、興味のある方だけでは無く、心が疲れていると感じている方にもおすすめしたいです。

ぼーっと万葉集を眺めながら、和歌に込められた想いを想像して楽しんだり、お気に入りの和歌を選び抜いて諳んじたり…贅沢で穏やかな時間を過ごすことが出来ます。

因みに私が万葉集の中で一番好きな歌は1544番の「 彦星の 思ひますらむ 心にも 見る我苦し 夜の更けゆけば 」です。

七夕の日、夜が明けていくことを憂い、彦星に共感して胸を痛める。

夜空を見て思いを馳せる感性に惚れたといいますか、透き通るような感情が31文字で綺麗に表現されていて、なんて繊細で美しい詩なんだ……と衝撃を受け、お気に入りの和歌になりました。

和歌は音読してこそ輝くと思うので、是非皆さんも口に出してみてください。

「ひこぼしの おもいますらむ こころにも みるわれくるし よのふけゆけば」

美しい〜……最高だな……ということで今回はこの詩にまつわるレポートを貼ります。(レポート→参考文献→今思うこと)

大学二年生の時に書いたものだと思います。今みると拙いなぁと思うところも多いのですが書き換えません!お許し下さい。

f:id:ama_gasa:20220125161815j:image

万葉集一五四四番歌踏まえて七夕伝説を考える

翻刻本文》

湯原王七夕歌二首

ヒコホシノオモヒマスラムココロユモミルワレクルシヨノフケユケハ

牽牛之念座良武従情見吾苦夜之更降去者

《校訂本文》

 ①             ②      ③ 

牽牛之念座良武従情見吾苦夜之更降去者

 《書き下し文》

湯原王の七夕の歌二首

彦星の思ひますらむ心ゆも見る我苦し夜の更け行けば

《現代語訳》

彦星が思っておられる気持ちよりも、見ている私の方が苦しい。夜が更けてゆくのを見ると。

 《語釈》

・「見る我苦し」

【新編】このワレは地上にあって天の川の星会いを見ている作者をさす。

湯原王が夜空を見上げ天の川の星を眺めながら思ったことを詠んだ歌との解釈。

・「思ひますらむ」の「ます」

【岩波】彦星への敬意を表す補助動詞

萬葉集注釋】敬語の助動詞。「増す」の意ではない。→星である彦星は敬意を向ける対象である。

《研究編》岩波では「下界で天の川を見上げる気持ちを詠う。」「下二句は、夜が更けゆく今は暁の別れも近いと、彦星を気の毒がる気持ちである。」と説明がされている。

 湯原王は秋の歌を四首万葉集に載せているが、そのうち七夕伝説を題材にしているのは、一五四四番とその次歌にあたる一五四五番の二首で一五四四番歌が彦星、一五四五番歌が織姫を想って詠んでいる。万葉集で百三十二首も詠まれている七夕について一五四四番歌の発表を踏まえ考察する。

 七夕とは中国に起源がある七夕伝説が元になっており『古詩十九首』まで遡ることが出来る。少しずつ物語の内容を変えながら中国から東アジアに広まり日本にも伝わった。その中で何処でも変わらない共通点として、川田耕は「(A) 二人が天の川の両岸に引き裂かれること(B) 年に一度、鵲が天の川に橋を架けること (C) その橋を渡って、二人が再会すること」と述べている(1)。

この三つの点を抑えた結末は二千年余り経つ現代でも変わっていない。一五四四番歌もこの三つの点は共通しており湯原王もまた同じ認識で歌を詠んでいたことが分かる。

 次に日本での七夕歌についてであるが、大久間喜一郎は日本の社会事情や生活事情に合わせて大きく変化したと述べている(2)。

万葉の七夕説話が伝来された時期は余りはっきりとは分からない。恐らく明日香・藤原朝のころであろうか。とにかく、 憶良の作が一番古いようである。巻十の七夕歌には、日本の社会事情や生活状況に当てはまるように大きな改変がなされている。牽牛渡河の伝承はその最たるものであろう。それは恐らく、妻問い婚の実情に合わせて考えるようになった為かと思われる。そこまで変化するのは、伝来の時から相当の日時を経過しているものと考えなくてはならないが、私はそれを第二次伝来と考えたいのである。そして、その後の平安期以後の伝承は、乞巧莫の行事の普及と共に新しい伝承も生まれ、民間七夕説話の起原をなすに至ったと考えたい。

 一五四四番歌では彦星、織姫のどちらが迎えに行くかについての記述がない事に対して疑問を抱いていたが、湯原王は通い婚が当たり前の時代を生きていない為、彦星が織姫を迎えに行くという形をとっていない理由になることが解った。

又、七夕の変化について川田耕も大久間喜一郎と同じく日本にあった信仰と上手く融合し七夕が広がったと述べている(1)。

日本には星に関する信仰の土壌がないにもかかわらず七夕伝説が受け入れられてきたこと、彦星に対して敬語を使っていることから敬意を向ける対象として彦星を見ていることが分かり日本に受けいれ易いように七夕伝説は変容を遂げたことが分かる。

そして、万葉集における七夕について、宮崎路子は七夕伝説を日本の文化に合わせて変化させた後、宮廷の雅会で漢詩の影響を受け変化したと述べている(3)。

七夕の宴が行事化し、七日に詩だけでなく歌が詠まれることが習慣化していった。その中で、漢詩の影響を受けつつ詠まれた歌を集めたものが作者未詳歌群の七夕歌と考えられる。そこで作者未詳歌群では織女、牽牛の身となり歌を詠むという形式は受け継がれているが、第三者の立場の歌の占める割合が高くなってきている。解釈により多少の異同はあるが、六〇首中の約四分の一が第三者の立場の歌と考えられる。これはやはり、先に挙げたように懐風藻七夕詩が地上の七夕の宴の場で天上へ思いを馳せての作であったことの影響であろう。中国から伝わった「七夕伝説」は、わが国で日本の文化にあった独自のものに作り上げられるが、七夕の宴が行事化することにより、再び中国詩の影響を受け変化していくのである。

 一五四四番歌について考えると奈良時代の知識階級における一般水準である懐風藻天智天皇の孫である湯原王は読んでいたと推測できる上、第三者の立場を取り別離の憂いを嘆いていることから懐風藻の影響を受けているのではないかと考えられる。

 最後に一五四四番歌を踏まえた上での七夕についてであるが、下西善三郎が万葉七夕歌について述べた「万葉人の男女地上的現実的な恋の姿が七夕伝説に投影され融化してうたわれたものの一つ」という意見(4)に同意する。一五四四番歌で湯原王が彦星に対して強い共感を覚えていることからも正しい意見だと考えた。

 万葉集一五四四番歌は、織姫と彦星の別れに思いを馳せ共感する湯原王の心と奈良時代の旧暦七月七日の空に輝く星々の美しさを感じさせ、そして日本の文化に合わせて少しづつ内容を変えてきた七夕伝説への変わることのない人々の親しみの気持ちを後世に伝える歌だと考察する。

 

参考文献 引用

(1) 川田耕「中国における七夕伝説の精神史」(人間文化研究 : 京都学園大学人間文化学会紀要2016-12-10)

(2) 大久間喜一郎「七夕説話伝承考」(明治大学教養論集75巻 1972-12)

(3)宮崎路子「万葉集における七夕伝説の構成-人麻呂歌集七夕歌群から-」(熊本女子大学国文談話会 国文研究40、1995-03)

(4)下西善三郎「万葉七夕歌・二星逢会の表現」(金沢大学語学・文学研究16、1987-01)

 

何度読んでも美しい和歌です。

彦星を詠んだ1544番に対し、織姫について詠んだ1545番。

「織女の 袖つぐ宵の 暁は 川瀬の鶴は 鳴かずともよし」

七夕という文化が今でもこの国に残っていることを嬉しく思い、これからも残ることを願います。

湯原王が見た天の川を今では想像することしか出来ませんが、和歌から当時の美しい星が連想できるようだとは思いませんか?

街灯もビルも化学物質も何も無い時代の空を私は見た事がないけれど、短い文字列からその美しさが伝わるんです。

書き残すことの大切さを感じる和歌でもありますね。

地球はきっとこれからも人間によって壊され続けると思うから、今我々が生きる環境が「美しい」とされる未来がきっとあるのでしょう。

改めて、写真に、文字に、何が残るものに、今を残さねばと思いました。

(因みに上に貼った写真は旅先で撮りました。日の沈んでいく様子が素敵ですよね。)

長々と失礼しました。ここまで読む方がいるかはわかりませんが…とても楽しいので推し和歌、選んでみては如何でしょうか?

他人と被ることはまずないです(※有名どころを除く)

何人かで推し和歌を探し、推し和歌紹介会をしても楽しいと思いますよ。

ここまで読んでくださりありがとうございました!