あまがさの日記のようなもの

書きたい時に書く日記のようなブログです。

㊗️「三年」

今晩は。皆様いかがお過ごしでしょうか。

暑い日が続いていましたが、先日から続く雨の影響で今日も少しだけ涼しく、過ごしやすい一日となりそうです。

喜びの金曜日、体調に気をつけてお過ごし下さいね。

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さて今回は、祝!!!3年目!!!やった〜!

2022年7月14日で「あまがさの日記のようなもの」が3年目を迎えました!

はてなブログさんからメールが届いたのでペタリ。

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パリ祭の日に始めたのは正解だったなと毎年思っています。フランス、おめでとう。私、おめでとう。

ゆっくりゆっくりですがここまで続けられたのは皆々様が読んでくださったお陰です。

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大学生の頃に始めて現在は社会人3ヶ月。自己表現の場が失われた今だからわかる、ブログの楽しさもあります。

高頻度でレポートを提出したり、学友と意見を交わしたりする日々も終わりました。

ここが無ければ詰め込んだものを吐き出す場が本当に無くなってしまっていたと思うのです。

Twitterも良い媒体だとは思うのですが、ブログという形をとることである程度文章に起こすようになりますし何より見返しやすいです。

そして自分の考えを残しておくことで気づくものもあります。

これから私はどんどん歳を重ねていきます。得るものもあれば失うものもあるでしょう。

いつの間にか失ったものに気づくためには、過去の自分を思い出さねばなりません。

ですが人間というのは都合の良いもので、無自覚に記憶を改ざんしたり、すっかり忘れてしまったりするのです。それを防ぐ為にもブログを書き続けるのは良いと思っています。

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なんだかすごく短かったなぁ。不思議だ。

ほんと、信じられない、英国時間で生活していたこの私が朝からしゃきしゃき行動しているなんて。。。3年前からは想像できません。

もう会社に着いてしまいます。この3年間についてお話したいことも沢山あるのですが今回はここまでにします。

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これからもゆっくりではありますが続けていく予定ですのでお付き合い頂けたら幸いです。

どうぞ末永くよろしくお願いいたします。

3年目の雨傘

人間関係リセット癖

誰かに対して思ったことがあるが言う必要も無いなぁと思い、でも折角思った感情を捨てるのも勿体ないと思ってしまい悩んだ末に餞としてここに残す。

誰かさんが「自分を大切にしなきゃいけなかった、周りから人が離れていった、虚しい」と話すのを見た。

違う。人が勝手に離れていったのではなく、貴方自身が切り捨てた。

何を言う、自分のことを大切にしていただろうに。していなかったのは恋人以外との交流では?

人間関係リセット癖。数年前、貴方は思い出話は嫌いだと言っていた。

長い友人もいないと言っていた、過去の話なんてしたくないと。なるほど、それならばそれで良いのだと思う。

人は思い出を抱えて生きていくものだと私は思っている。でも貴方と思い出は共有できないようだ、ならば仕方ない、一時だけの友好を築きましょう、とその時思った。

依存体質。誰か一人に依存するとそれ以外が見えなくなってしまう。

これは人間関係リセット癖にも繋がっていて相手好みに自分を変えるから依存相手との関係が切れた後、その時期が黒歴史化してしまうのだろう。

恋人ができたと言われた時、おめでとうと伝えたけれど、きっと私との友好関係は切れるなと思った。

やはりその通りで、恋人に完全に依存し、友人関係を全て切り捨てた。

日常生活もおざなりになり、やらなければならないことを放棄していた。一瞬心配もしたがその道を進むのだろうと忠告もしなかったし、しても良いことは無いなと思った。

もし貴方との信頼関係が築けていたならば、目を覚ませと止めていたと思う。

貴方の世界は恋人中心に回っていた。なにかのイベントの時だけ一緒にいようと誘われても、それ以外の時間を共に過している友人が別にいるから貴方と一緒にいようとは思わなかった。

当然である。私には沢山の友人がいて、それぞれと友好関係を築いている。誰かさんに使っていた時間はもう別の人に使っていて、突然帰ってこられても開けられる場所はない。

自己評価が高すぎる。対等な関係が築けるならば共にいようと思ったが、そうでは無いなら不要なのだ。もし私の友人が貴方一人だけだったなら帰ってきてくれて嬉しいと思ったかもしれないが、そんなことは無い。去るものは追わない主義なんだ。

周りから人が離れていった?まるで被害者のような口ぶりだが、自分から切り捨てたことを忘れていないか。

今、友人を求めているのは恋人と別れたからであって、また恋人が出来たら友人は切り捨てるつもりでしょう?そのような人間と態々、信頼関係を築こうとする人はなかなかいないと思う。

切り捨てられるとわかっていて一緒にいたいと思えるだけの魅力が自分にあると思えるその感性は素敵だと思うが、客観視点そんなことないんだよなぁ。難しいよな、人間って。

今まで生きて来た道が現在の自分を作り、現在の自分が未来の自分を作る。

それに関わる人間関係もその歴史には付随しているのだと私は思っていて、良い人間関係の構築には相互理解が齎すお互いへの信頼が必要だと思っている。

信頼というのは時間を掛けて築くものだと思う。相手のことを少しずつ理解し、少しずつ信用を積み重ねて親しくなっていく。

私の思う人間関係とはそういうものであるが、違う価値観の人がいることも理解していて、違う価値観の人ともそれなりに親しくしているつもりだった。

ただ、やはり、一度壊れた関係の修復は難しい。

どうやら誰かはまた声をかければ友人に戻れると思っているようだった。私は凄く他人に優しいから誤解されたのだろう。それをとても残念に思う。

人間関係というは難しい。たゆまぬ努力によって実り、継続するものだ。

関係が途切れた時、途切れる寸前の状態のまま保存される訳では無い。

少しずつ干からびていく、風化して過去の出来事として保存される。そこに水を与えるのが思い出話だと思うのだ。

あんなことがあった、こんなことがあった、と共通する話題を出して当時の人間関係を思い起こし、この人は信頼出来る、と認識させるのでは無いだろうか。

楽しかった思い出を話し、またそんな関係になりたいと思えるようにする。

現在に疲れている人ならば尚更、過去の話題は染み渡り楽しかった思い出に浸る幸せをまた味わいたいと思うのではないか?

そもそも私と貴方にはそんな信頼関係があっただろうか。思い出を重ねる気がないと言われてから私は貴方と思い出を重ねていない。

私と親しくするとある程度のメリットが得られる。その中でも特に役に立つのは人間関係であろう。

私の友人である、という事実が貴方の友人を増やし、欲しかったものを手に入れる手助けになり、日々の楽しさにもなったはずだ。

(そこで関わりを持った人間と自分自身が交流を持つことで「私に与えられた関係」から「自分自身が築いた関係」に変わる。もし変えられたなら私無くしても成立するようになるだろう。)

勿論それは私に限った話ではなく、別の人間と友人であっても同じことだ。人間関係とはそういうものだと私は思っている。

そしてそれは友人だから私から提供されるもので、それ以外の人間に提供する気は無いのだ。

私は人類全てに優しくあろうとしているし、多分相当優しいと思うが、友人に提供しているものとはやはり違うだろう。

やはりそれも皆に共通するのではないだろうか。

一人に依存している間は、なにも変わらないと思っていたかもしれない。でも違うのだ。目が覚めた時、何も周りになくなって驚いただろう。

私の努力によって築かれていたものは全て無くなった。切り捨てたのだから当然であろう。友人以外に心を尽くす理由がない。

聞かれれば答えるし、助けを求められれば助ける、でもそれ以上はしない。

私は常にご機嫌である、特に人といる時はご機嫌になれるように意識している。だから周りからすれば何も変わらないように見えるのだろう。でも明らかに関係は変わったろう?

それでも私は誰かさんに優しかったと思う。その他大勢に向けた対応よりも少しだけ優しかったと思うのだ。

誓って私は貴方のことを悪く言ったことは無いし、誰に聞かれても褒め続けていた。表向き特になんの代わりもなく、ただ遊ばなくなっただけに見えていただろう。

私は人に優しくあろうと思っているから、貴方が嫌われないようにしっかりとフォローした。

私だけが覚えている思い出を抱きしめて、これが私からの貴方への最後の友人としての優しさだと思いながら、いい子だよねぇと言い続けた。

私は貴方に一切敵対していない、にも関わらず周りに誰もいなくなったのだから、私のせいではないよ。

それでもやはり自分は悪くないと思うのであれば気の毒だ。薄い関係を築いては捨て、築いては捨てて生きていけば良い。

ここまで長々と書いたけれど、つまるところ、私はもう誰かさんと遊ぶ気はないよってこと。

友人として過ごしていた時は沢山遊びに誘ったし、楽しいことも沢山提供したけれど、それは友人だからだよ。

去るものを追わない主義だから1度も追いかけなかったし、一切連絡を取らなかった。それが全て。

大切なものに失ってから気づく人間になるまいという自分への戒めも込めて。

きっとこの3000文字を打ち終わる頃には満足してしまって何も思わなくなってしまう。だからこそ今貴方への思いを綴り切らねばならない。

当時言えなかったけれど、今までありがとう。一度だって嫌ったことは無いよ、私の知らないところで楽しく生きていっておくれ。

貴方の未来に幸あれと嘘偽りなく思っているよ。素敵な友人とお互いを想い合える人に恵まれますように。

元友人より。

質問箱に答える

おはようございます。前回から少し時間が開きましたが元気に暮らしています。

さて、今回は質問箱に来ていた匿名の質問にお答えしたいと思います。

かなり真面目に回答しますので長くなります。興味のある方だけお読み下さい。

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問:学校のお勉強だけ出来ても何の意味もないと思うのですが、どう思いますか?

回答:

何か嫌なことがあったのかなと思うのですが、冷静になって下さい。

確かに勉強だけしか出来ない人には、友達ができないかもしれませんし、出世できないかもしれません。
ですが、勉強もそれ以外も出来ない人が世の中には沢山いるのです。秀でたところがあるのは良い事だと私は思います。意味が無いなんてとんでもない。

第一に「勉強だけできても」の「だけ」は誰が判断したのでしょうか。
勉強ができる人間は努力ができる人です、稀に努力なしでも点が取れる人もいますが要領が良い人です。

第二に「意味」ですが、貴方は何に意味を見出しているのでしょうか。
勉強が出来なければ未来の選択肢が狭まるのですが、それは理解しておられますか?何か夢があり、その夢を叶えるためにとある会社に入りたいと思っているとするでしょう。でも応募資格は大卒以上、なんてこと世の中に沢山あるのですよ。

大学進学のお金が工面できない人でも、賢ければ特待生になれるかもしれないし、奨学金も無利子で借りれるかもしれないし、私立大学の学費は難しくても国立大学の学費なら出せるかもしれない。

大学にもランクがあって、就職活動で大学名は重要になるのです。又、理系の場合研究内容が重要になりますが、良い大学には良い設備と良い教授がいるのです。

何も夢がないのだとしたら、もっと勉強できた方が良いでしょう。
なにか興味のあるものを見つけるためには世界が鮮やかに見えた方が良い。世界を色付けるのは知識と感性では?と思うのです。その四年間で夢を見つけるためにも少しでも良いところに行った方が良い。

そして結局やりたいことが見つからなかった時、貴方を助けるのは学歴だと思うのです。それ以外も重要ですが、学歴というのは頑張るべきところで頑張った証明になります。「自分は努力ができる人間です」という証なのですよ。
可能性を広げるために勉強は必要だと思っています。

質問者さんは、学校の勉強だけしかできない人を好ましく思っていないのであろうと想像しているのですがあっているでしょうか。
それとも質問者さん自身が学校の勉強だけできて他が全くできないと思っているのでしょうか。

前者の場合、まずは勉強をしたらどうでしょうか。この質問は勉強ができる、または勉強が好きな人間から出るもののようには思えないのです。違ったらごめんなさい。
狭まった視野を広げるために読書をしたり友人とお話ししてみたりすることをオススメします。

後者の場合、自己嫌悪に陥っているのかなと思います。私が思うに学校の勉強だけしか出来ないなんてことありません。「学校の勉強だけできる」と言い切るその自信は結果から来るものでしょう?

貴方のした事が結果になり現れているのだから自信を持ってください。
学校の勉強ができる。つまり、わからないことをわからないと認め、理解するために解釈し、自分の中に落とし込む作業ができる人間なのではないでしょうか?

仮に学校の勉強が丸暗記だというのなら、貴方は素晴らしい暗記能力を持っているということです。私は全く暗記が出来ず苦しんできた人間なので羨ましく思いますよ。

そうですね、学校の勉強ができるなら、勉強に使っていた時間の1割を他のことに割いてみては如何でしょうか。
お友達が居ないのならば先ずは自分の出来る話題、つまり勉強のことで構わないので話し掛けて友達を作ってみませんか。

もし誰かと喧嘩をしてしまったならば、仲直りの方法を考えてみてはいかがですか?高いプライドが邪魔をするなら、今のうちにへし折っておきましょう。プライドは自分を強く誇り高くさせますが、ただ高いだけのプライドなんて自分を苦しめるだけです。ある程度にとどめておいたほうが今後楽ですよ。

友達なんていらないと思うのならば、学校の勉強の枠から飛び出してもっと深く学んでみては如何でしょうか。又は外国語を詰め込んでみてはいかがでしょうか。長くなるので省きますが、どの道に進むのだとしても外国語を覚えておいて損はありません。

個人的に、少しは対人能力を鍛えた方が今後楽に生きられるとは思います。でも必須では有りません。
対人関係が上手くいかなくても能力さえあればやって行けます。そういう人は研究職という道がありますよ。

もし既に友人関係もバッチリだ、というのなら逆に何をお求めなのでしょう?一般的な価値観に当て嵌めて考えるなら恋人?

恋人は……多少頑張れば出来ると思います。勉強ができてコミュニケーション能力があるならばモテモテになれると思います。

貴方が本当に勉強ができる人ならば、多少の努力すら出来ないとは思えません。

どんな場面でも笑顔を欠かさず、周りの人に関心を寄せ(なくてもある振りをする)、身だしなみを整える。

身だしなみというのは最低限で構いません。男女問わず髭、脇、指、等々の無駄な毛を剃り、髪は目に掛からぬように切り、眉を整え、毎日風呂に入り、歯磨きをして、外出前には顔を洗って髪を整える。汗かきなら毎朝シャワーを浴び、汗ふきシートを持ち歩きましょう。

自分の体型がふくよかな自覚があるのなら運動をして絞れば良いのです。話題にもなりますしね、気になる子に話を振ってみて印象が良ければ一緒に走ったり、スポーツをしたりすれば良いのです。

面倒くさい?その程度のことも出来ない人間に惹かれる異性(異性限定ではない)なんて空想上、もしくは自分と同レベル帯にしかいませんよ。

自分より魅力的な人に惹かれる癖に、自分を磨かないなんて……人間関係はそんなに甘くない。

なぜ人を好きになるのか、好きになった先に何が待ち受けているのかを考えた時、多数意見を述べるなら「この人と共同生活を送れるか」「家族になれるか」では無いですか?

そのレベルに達する努力すらできない人間は共同生活を始めた途端、不愉快な現象を振りまく悪の権化となりそうと思われても仕方ありません。例えば子供が出来た時、育児には参加せず自分のやりたいことだけをやろうとする邪魔者になるのでは無いですか。

他者のために自分を磨けない人間に人を心から愛せるのですか?

ありのままの自分を受け止めてくれるなんて御伽噺、信じていたら死ぬまで恋人は出来ませんよ。そもそも自分が愛される、受け入れられることを目的としているように思われても仕方ありません。

あなたのことは受け止めないけど自分のことを全て受け止めてほしい!なんて許される訳ありませんよね。

誰かを愛することが出来る人間が誰かに愛されるのではないでしょうか。

就活や営業活動と同じですね。

如何に自分が良い人材で、他者とは違くて、誰かを幸せに出来るか、をアピールせねば。

最後に。人間性についてです。
勉強だけできて性格が最悪なら関わりたくないですよね。ですが意味はありますよ。
「学校の勉強ができる」の意味が「頭が良い」なのか「丸暗記が得意」なのか私には分かりかねますが、どちらも能力ですよね。私には無いものです。
多分学生さんだと思うのですがまだまだこれからなのだから他の所は伸ばせますよ。
全て兼ね揃えた人間なんて居ないようなものなのですから足りないと思うならば補えば良いのです。
足りない自覚がない人が不愉快なら関わらなければ良いのです。

伝わりますかね、意味は他人が見出す物ではなく自分が見出すものだと思うのです。

そしてその「だけ」は勉強以外にも言えることです。
「運動だけできても」「見た目だけ良くても」「話だけ上手くても」何にでも言い換えられます。
何に重きを置くかは人それぞれなので。

世の中には多種多様な価値観があり、そのぐちゃぐちゃで混ざりあった社会で生きていくのだから諦めも肝心ですね。

お互いがんばろう!

 

ということです。如何でしょうか、回答になったでしょうか。

脱線してしまったのもあり相当長くなりました。
botの質問かな?とも思ったのですが質問がなかなかよかったのでつい真面目に答えてしまいました。
同じことを考えている誰かの助けになれば幸いです。

それでは、教習所に行ってまいります!

ここまで読んでくださりありがとうございました。

人生で一番高い買い物

おはようございます。満員電車に揺られながら文字を打ち込んでいます。あぁ〜労働だ〜!

さて今回は、今週のお題が面白そうだったので挑戦します。

「人生で一番高い買い物」

これは自分が買った高いものなのか自分の所持品なのかにもよるのですが、私の持ち物で一番高いのは間違いなく腕時計です。

期間限定、数量限定で発売された最高に素敵なデザインのソーラー電波腕時計……大学合格のお祝いに祖父母にオネダリをして買ってもらいました。

自分で買った訳では無いので買い物認定にはならないかな?

私が買ったもので1番高いのは正直に言うならばスマホです。iPhoneって高いですよね、毎回絶望してます。

うーん、スマホ……ちょっと味気ない……スマホを除いて考えるなら鞄。

革製品が大好きで、私はお気に入りの工房で鞄や財布など身の回りのものを揃えています。

数年前のクリスマスに一目惚れして買った鞄はそこそこしたかなぁ……それでも言うほど高くないですが笑

そんな所でしょうか?結論、腕時計!(スマホ

……言いたいことはわかります。文章書くの下手になってますよね……こわい……原因はわかっているんです。

最近お絵描きをしていて、内部エネルギーを絵に放出してしまい文章にぶつける気力が残っていないのです。

あぁ〜〜〜おえかきたのし〜〜〜!(疲労困憊)仕事行ってきマース。

皆様も良い一日をお過ごしくださいませ。

 

ステッカーを頂きました

はてなブログ様から公式ステッカーを頂きました。

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特に何か特別なことをした訳ではなく、週刊はてなブログのキャンペーンに応募したところ貰うことが出来ました。

この手のグッズが大好きなのでとても嬉しいです!

大切にさせていただきます。はてなブログ様……!これからもよろしくお願いいたします!

短いですがご報告だけさせて頂きました。今回はここまで💝

悲しい時代に

この悲しい時代に私なりの方法で意思表示をしたい。

何か描こうかと思ったが、今の我々に必要なのは歴史から学ぶことでは?と思い至り、千数百年前の詩を引用することにした。現状を嘆く誰かに届くことを願って。

 

杜甫「倦夜」

竹涼侵臥内 野月満庭隅

重露成涓滴 稀星乍有無

暗飛蛍自照 水宿鳥相呼

万事干戈裏 空悲清夜徂

 

竹林の冷気が寝室に入り
野月の光は庭に満ちる

竹の葉に露が重なり流れ落ち
月空にまばらに浮かぶ星屑が見え隠れしている

暗闇を飛ぶ蛍はその身の回りだけを照らし
川に宿る鳥は呼び交わす

全ては戦争という不幸な状態にある

何も出来ず私は ただ清らかに夜が更けていくのを 空しく悲しんでいる

 

(訳は私です。正しい訳が知りたい方は御自身で調べて下さいね。)

 

戦争が穏やかな日常を壊している事実を悲しく思います。

美しい小麦畑が軍靴に踏まれ、帰る家は無くなった。

行きたくもない戦地に向かう人や愛おしい人を戦地に送り出す人の苦しみを想うと、締め付けられるように心臓が痛む。

この辛く虚しい時代の中でもこの詩は私の心を震わせた。

戦禍で苦しむ全てに対して同情し、歴史から学ばぬ人類を嫌悪させた。

言葉には信じられないほどの力がある。ならばこそ扱いには気をつけなければならない。

この辛い社会情勢に対する私の考えを発信しようとして、やはりやめておこうと思い、でも何かしなければ、ここで意思表示をしない人間になりたくないと思ったのでこの詩を引用することに決めました。

嫌ですね。

こんなにも欲にまみれて、醜いとは思わないのか。

でも欲が無ければ私を含め何もかもが存在しないのだと思うと、美しくも思えます。

人間は複雑で難しく悲しく美しいものだなと詩を読みながら思うんです。

ひとつの言葉で命を散らす人がいる事が悲しい。

ひとりの言葉で帰る家を失う人がいる事が虚しい。

ひとつの国の言葉で世界が怯えなければならないことに、近代化に伴い人類が得てしまった力に対して絶望する。

化学の発展は世界を豊かにしたのでしょう。でもそれらを扱えるだけの人間性が私たちには育たなかった。

それが悲しくて虚しくて情けないと思うんです。

人間とはかくも愚かで学ばない生き物なのだなと歴史を見て思うのに、その歴史を学んでも繰り返す精神を嫌悪するのです。

理性があるはずなのに欲に負けてしまう愚かしい精神を恥ずかしいと思うのです。

その性質を自分の中にも見て吐き気を催す。

どうしたら良いのだろう。私に出来ることは?

嗚呼、一日も早い平和を、一刻も早い平穏を。

無神論者だから神には祈らない。でも一秒でも早くこの終わりの見えない苦しみが終わることを願っています。

私たちは歴史の転換点を生きている。

そして、この戦争が終わった時には、勝った側が歴史を作ることになる。目を見開いて現状を見ておきましょうね。

勝者が作る歴史に否と言えるように。

 

 

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最後に。ウクライナ、ロシア情勢について、情報が耐えず入ってくるこの状況を辛く思う人もいるかも知れません。

辛いと感じたならば情報を絶って、自分のために時間を使ってくださいね。

上代文学〜平安文学における女の表現

上代文学〜平安文学における女の表現の備忘録です。お好きな方だけに刺さるかもしれません。

ただのメモなので後日まとめるかもしれませんし、まとめないかもしれません。

以前書いた「竹取物語という型」のレポートはこの辺の知識も混ぜて書いています。

気になる方はそちらを読んだ方が楽しめると思います。ご理解頂けた方のみお読み下さい。

テーマ「女を盗む話」

古事記

ナムヂはスサノヲからの嫌がらせを受けながらも耐えてスセリビメを連れて逃走。

女を盗むことが王になる力の証明になっている。


伊勢物語

鬼の物語だが実際、伊勢物語は政治的に危険な話。


古事記伊勢物語は共通して女を盗む話である。

女を盗むことを通して、力のない若者が権力のある大権を持つ人に反抗する様子を描き、ロマン溢れる男の話になっている。


大和物語

美しい娘が誘拐される。(誘拐されてから鏡を持たせてもらえていない)

久しぶりに顔を見たら自分の容姿がみすぼらしくなっていてショックを受け、自殺。その自殺を見た誘拐犯もショックを受けて死ぬ。


女は男を思っていたと言っているが、実際どうかは分からない。誘拐犯を好きだと思い込むことで精神を保っていた可能性がある。

女はアイデンティティが崩壊したかのように自死。ロマンはない。


更級日記

男がホームシック(武蔵国)になる。それを聞いたお姫様が男を誘って一緒に逃走。追ってきた使者に姫様が反抗し親は諦めて男に武蔵国を任せることにした。


ハッピーエンド。女が主体的で東国(武蔵国)を魅力的に描いている。

反権力的なロマンはないが幸せな終わり方をするのが素敵。

 

テーマ「2人の妻」①


①2人の女と出会う、結婚するパターン

②既に結婚している男がもう1人の別の女を妻としてしまうパターン

今回は①のパターンを学ぶ。


伊勢物語 初段

田舎に似つかわしくない美しい姉妹がいて男性はびっくりした。惚れたので服を破いて歌を送った。「いちはやきみやび」

→ひたむきで優雅な恋の世界が描かれている。情熱的で美しいロマンス。


旅先で男と二人の女が出会う というパターンは中国唐代の小説『遊仙窟』の影響があると思われる。

 

源氏物語 若紫巻

光源氏が尼君と若紫と出会う(垣間見る)


二人の女と出会うというシチュエーションは同じだが、源氏物語伊勢物語との違いがある。

健康的な若い貴公子⇔病んだ若い貴公子

京都の南⇔京都の北

優美な姉妹⇔老いた尼と幼い少女

源氏物語「若紫」は伊勢物語の「若紫の刷り衣」

から来ている。源氏物語伊勢物語のパロディ。


源氏物語 橋姫巻

薫(光源氏の血の繋がらない子)が宇治の姉妹(八の宮の娘)と出会う(垣間見る)

お淑やかな姉、ハキハキしている妹楽しくしている姿を見ていて親しみ、興味を抱いた。

 


若紫のようにパロディにはなっていない。

また、静謐で美しい情景だが、明るくない苦しい恋になる。(バッドエンド)

 


→若い男が二人の女と出会う話は人間関係の複雑さを表現するために利用されることがある。


古事記 中巻 垂仁記

女が二人の男に出会うパターン

兄と夫どっちが大事かを兄が妹に聞く→妹は兄が大事だという→兄は妹に夫を殺せと言う→妹は夫を殺せず泣き、夫にそれがバレてしまう→戦争→妹(妻)は兄の方に行ったので夫は攻められなくなる→最終的に子供は夫側に渡されたが、妹(妻)は兄側に残る。

 

テーマ「二人の妻」②

伊勢物語』第23段

田舎の幼なじみ同士が相思相愛で夫婦になりたいと思っていて結婚。

妹=(親しく思う女の人に対して)貴女

結婚後女側の親が死んでしまい生活に困ることになる。

生活の為に男は新しい女の人を作ったが妻は嫌がらなかった。妻が嫌がらない事を男は不審に思い浮気したのではないかと疑い監視(最低)

妻「風吹けば 沖つ白波 たつた山 夜半にや君が ひとり越ゆらむ」

男は妻のこと好きだなと思い、女ところに行かなくなった。


男女関係を描く歌徳説話の典型。二人の女が対照的に描かれていて「みやび」か否かが重要。

樋口一葉の『たけくらべ』の典拠の一つ。

『大和物語』第149段はこの話を踏襲している。


『大和物語』第149段

伊勢物語と比べて説明が多い。「愛していると思いながら女を作る」「今の妻はお金持ち」「対して新しい女の人を愛していない」「男は妻が嫉妬しないのを不思議に思う」「妻は嫉妬してたけど我慢していた」等、心の中を説明している。その為にオチがわかってしまう。

伊勢物語は1人で歌を歌っている。

大和物語は1人で歌を歌うとは思えないから誰かいたんだろうなぁという考察が入る。

おもひ=おも火→嫉妬の炎がお湯を沸かした

男は妻に駆け寄り、新しい女のところに行かなくなった。

実は男は皇族の血が入っている人だった。←田舎者ではなくなった。業平として話している。


ストーリーは伊勢物語23段と同じだが、説明が多く合理的。

(個人的な感想)伊勢物語の方が好みだが、勉強をするならば大和物語の方がわかりやすいのかなと思った。


大和物語 第157段

妻に飽きた男が家の物を新しい妻のところに全部持っていった。

妻「ふねも往ぬ まかぢも見えじ 今日よりは 憂き世の中を いかでわたらん」

男は物を返して一緒に住むようになった。


家財を一切合切運び出すところが読みどころ。愛情の移ろいが反映。

男がものを共有する、預ける存在が妻だったことがわかる。


・はいずみ 堤中納言物語

身分が高い人が身分の低い人を愛していたが、新しい女(金持ち)のところに通うようになりその後同居し始めた。

牛を用意しない男!馬に乗れとか言ってくる!

妻「いづこにか 送りはせしと 人間はば心は行かぬ 涙川まで」

男が迎えに来て、妻を連れて帰る。新しい女には言い訳をして妻と暮らすようになる。


親が目立っている、妻が家を追い出される、馬に乗って出ていく、最後のドタバタ。

読者が理解しているからこそ話型を意識して書いている。

(個人的な感想)男が最低すぎてわろし。どちらの妻も雑に扱い過ぎていている。むげなり!

 

テーマ 複数の求婚者(女性1人に男性2人又は複数)


万葉集 第十六巻

二人の男が一人の女を取り合った末、女が気に病み自殺。女の倫理観が儒教道徳的。

男達は女が死んだことを悲しむ歌を歌う。

さくらこ自殺。かずらこも入水自殺。


複数の男から求婚される女が自死を選ぶという型。

男性が作った話であり女性をロマンティックに描かれている。男性の理想を表しているが、女性の内面がはっきりと描かれる所にさくらこ、かつらこの特徴がある。

万葉集に他にも二人の男から求婚される女の話がある。

 

竹取物語

沢山の男から求婚されるが、かぐや姫は無理難題を押し付ける。いくら説得されようがかぐや姫は結婚する気がない。

翁「子供を産め、結婚しろ、俺が死んだらどう生きられなくなる、男たちと結婚しなさい。」

姫「深い愛情がないと嫌だ。浮気されたら無理だし嫌だ、愛情確認して出来たら結婚する。(なお無理難題な模様)」


竹取物語は女の内面ではなくて男たちの内面を見つめている。求婚している男の心を問うという要素を入れることで万葉集とは違う物語が生まれている。

キーワードは「こころざし」


(個人的な感想)現代の価値観を持っている私からすると翁とは分かり合えない。かぐや姫がここまでしないと断れないのは気の毒だと思う。


・大和物語 第百四十七段

男二人から求婚される女。男がずっと門の前に立って待っている。男も女もこのままだと良くないから親は女にどちらかと結婚しろと言う。

男同士で競ってもらい結婚相手を決めることにしたが決着が付かない。

女は辛くなって入水自殺。男達も心中。

死後も親達がお墓の場所で揉める。蛙の子は蛙。男達は墓に入っても女の取り合いで揉めている。


「こころざしまさらにこそあはめ」「一人一人にあひなば、いま一人が思ひは絶えなん」は竹取物語の影響だと考えられる。

血や刀が出てくる事がかなり衝撃的。

話の型が変形した。


(個人的な感想)迷惑すぎる男に好かれて本当に気の毒。女がはっきりしないのも酷い、自我がない。心中してよかったと思う。

ハーレムはハッピーエンドになるのに、逆ハーレムはバッドエンドになるのは当時は当たり前なのかもしれないけれど悲しい。


源氏物語 浮舟巻 続篇

入水を企てる浮舟「私なんて居なくなってしまえば良いんだ!親もたくさん子供がいるからしばらくは悲しむけれどすぐ私のことを忘れるだろう。」←大和物語の影響を感じる。

東国の悲話:身分に関係なく三角関係は起き、時には殺人事件も起きることがある。実際に三角関係になった時に女に責任があると言われ家を追い出された人がいる。

最終的に浮舟は悩んだ末に入水自殺。


「身を投ぐるためし」は大和物語生田川伝説と見て良い。

浮舟の死後、男たちには熱意がない。浮舟という存在の軽さが表現されており、大和物語のと違いがある。

初期は儒教的な女性の貞操を描いていたが「源氏物語」では苦悩の抽出や存在の軽さを暴き出すことへ寄与している。