あまがさの日記のようなもの

書きたい時に書く日記のようなブログです。

日記のようなもの

今晩は。お気に入りの革の手袋をクローゼットから取り出し、紳士的な装いの準備は万端な今日この頃です。

さて、今回は今週のお題 「読書の秋」に挑戦します。

本は読みまくっているからなぁ…何にしようか…と思ったら…良いところに日記が。

日記を読むのも読書です(断言)

という事で、今日は幼いころからずっと私が書いていた日記のようなものについて話そうかなと思いました。

本の紹介は以前にもしていますし、これからもする予定なので今回はしません!小説紹介をお求めの方はここでブラウザバックをお願いします。

今回話す「日記のようなもの」はただの日記ではありません。

悲しいこと、辛いことがあったときにのみ書く、私にとって唯一本音を書きだせる場所だったものです。

私の心の叫びであり、記録であり、当時の私が過ごしていた世界の狭さを理解させられるものです。

苦手な人も多いかと思うので気分が悪くなったら、直ぐに読むのをやめてくださいね。

日記には楽しいことは一切かかれていません。書きなぐり、強い感情で歪み、涙で滲んだ文字しかありません。刃を突き立て切り刻まれていたり、破かれているページばかりで表紙以外はボロボロです。

そして一冊ではありません。何冊にもわたりこんな大人にはなるまい、死にたい、この場から逃げたい、早く楽になりたい、私が死ぬときはこれを抱いて眠るんだ、と書き連ねています。

それらを書かなくなった今でも読み返し、いつまでも忘れないようにしているんです。十年前の私を裏切らない人間であり続けたい。そう思いこの歳まで生きてきました。

「あまがさの日記のようなもの」は他人に読まれることを前提にしていますが、そうではないので少し刺激が強いかもしれません。

今日、目に止まったのはまた思い出さなきゃいけない時期が来たからなのでしょうね。

一人で見て満足することも出来るのですが…誰かに、いつかの私が思っていたことを共有したいのでここに載せます。

狭い世界を生きてきた全ての元子供に、自分はなぜこんなつらい思いをしなければならないんだと絶望した人に、死ぬ勇気がないのが情けないと自分を責めたことがある人に宛てて書きます。

「こんな大人にはなるまい」と思っていた大人にならないで欲しい。今なっていないか見つめなおしてほしい。

幼いころの自分に今は幸せだと、その苦痛から逃れられると、抵抗できるだけの存在になったと誇れるように生きていてほしい。そしてここまで生きられなかったすべての人への哀悼の意を捧げます。

先にいくつか注意事項を書いておきます。

  • 親を悪く言うなという意見があることも知っていますが、虐待で死んだ子供の墓の前で同じことを言える方だけコメントしてください。
  • 世界に幸せな家庭しかないと信じたい人はここで読むのをやめてください。
  • 自分の苦しみと比較して感情が荒立つ人は読むのをやめてください。

ご了承いただけた方のみお進みください。

f:id:ama_gasa:20211024042202j:image

関係の無い画像でワンクッション。

⿴⿻⿸

数頁だけ日記を公開。さすがにそのままだと気持ち悪いと思う方も多いと思うので少しぼかして貼ります。

f:id:ama_gasa:20211024042329j:image

f:id:ama_gasa:20211024042339j:image

f:id:ama_gasa:20211024042416j:image

文字が太くなっているのは全部涙による滲みです。味がありますね。

f:id:ama_gasa:20211024042359j:image

滲んでるのが伝わりやすいかなと思って、別ページを拡大撮影したものの…普通に気持ちが悪い。

f:id:ama_gasa:20211024042435j:image

これは油性ボールペンで書いてた時のやつ。書いた後に彫刻刀でノートをグサグサと刺していたので彫刻刀の跡も写っています。思い出ですね。

こんな感じの内容の日記が数冊あります。悲しい時に書く用なのでページをめくる度にこんなことあったなぁと悲しい出来事が蘇り、よく頑張ったなぁと自分を褒めることができます。

悲しいことが起きる→嫌なことを書出す→読みながら泣く→ノートを滅多刺しにする→仕舞うの流れです。

耐えられない環境にいる方にはおすすめのストレス発散方法です。

⿴⿻⿸

日記を見ながら思うことをつらつら書きますが、見るに堪えない可能性があるので読まなくて良いです。

⿴⿻⿸

親が私の世界の頂点に君臨していて、親の庇護のもとでしか生きられなかった。親の意見が絶対で、感情は優先されるものではなかった。

約束とは、いつの間にか押し付けられた上に強要される逃れられないものだった。しかし親は破っても良く、理不尽で上から課されるものだった。

心配をかけさせることは悪だった。何か少しでも心配させることがあると怒られた。

家では常に笑顔で居なければならなかった。疲れた様子を見せると馬鹿にされたし怒られた。

意見は押し付けられるもので発するものではなかった。発言は許されなかったし親のミスは許さねばならなかった。

親に不満を持ってはいけなかった。少しでも顔に出れば怒鳴られた。

二か月に一度帰ってくる血縁者を愛さねばならなかった。彼に気に入られなければ人権がなかった。

私と何も向き合わず、何も知らないにも関わらず知っているふりをして怒鳴ってきたがそれを受け入れなければならなかった。

普段は酒に溺れ、ヒステリックに当たり散らす悪魔と二人きりで生活せねばならなかった。元食べ物だった炭、床に落ちたカレー、残すことは許されず床につくばり夕食を取ったこともあった。

酒は人の本性を現すものだと信じたくなかった。酒が本心を引き出すものならば私は愛されていないことを認めねばならなかった。

親に生かされているのに嫌われたら死ぬしかないと思っていた。だから嫌われるわけにはいかなかった。

逃げられなかった。誰も助けてはくれなかった。せめてもの抵抗に遠回りをして家に帰った。

酒を飲まねば穏やかな親だった。酒を飲まないでくれと懇願したが受け入れられなかった。

12歳の夏、親が朝まで帰らぬ日があった。学校帰りに鍵もなく、飲まず食わずで朝の三時まで家の前でずっと待っていた。

酒を飲み、暴れた親に床にたたきつけられた。押さえつけられたまま床で眠り、朝目覚めて親に「私のことが嫌いなの」と聞くと「服を買ってあげる」と。

愛していると言われなくてもよかった。洋服で買えると思われたのが悲しかった。

「酒を飲むのを辞めてくれ」と懇願したら「服を買ってあげる」と返された。ただ一言、酒をやめると言ってくれれば救われたのに。

世界は狂っていると思った、悪魔を殺してやろうかと何度も思った。でも悪魔がベットをワインで赤く染め、苦しそうに胃から酒を吐き出しているのを見たとき、死んでほしくないと思った。

意味が分からず混乱した。洗脳は解けない。

風呂場で親が汚したマットレスを泣きながら洗った。ワインの香りが充満した風呂場で自分は幸せにはなれないと確信した。

頼れる人は目の前の酒に狂った悪魔しかいないと。得体のしれない二か月に一度会う怒鳴ってくる存在とは暮らせないと、わかっていた。

今この文章を打っていて涙が止まらない。もう大丈夫になったと思っていたがそんなことはないようで驚いている。

傷ついている実感がない。十年前の私のほうが何十倍も悲しくて悔しくてつらかったので思い出すだけで涙が止まらないことが受け入れられない。

強くなれなかったと認めることはできない、私は成長した。体も大きくなり抵抗するすべを身に着けた。親とは良好な関係を築けている。なのに思い出すだけで前が見えなくなるのはなぜなのか。

毎日死にたいと思っていた。家に帰りたくなかった。空き瓶や空き缶の転がる悪魔のいる家は安心できる場所ではなかった。

優しい母に会えるのは月に何回かだった。その日を心待ちにして、その時が本物でそれ以外は偽物だと信じるしかなかった。

今ならそんなことはないとわかる。当時も本当はわかっていた。でも受け入れたら誰にも求められていないことを理解せざるを得ないから、認めるわけにはいかなかった。

学校や習い事が救いだった。明るく振舞えば笑顔を向けてもらえることが幸せだった。

本に逃げた。登場人物に入り込んで幸せを味わった。主人公になった時、私は世界に肯定されていた。

ネットに逃げた。私ではない誰かになりきって現実から目を背けていた。貧乏ながらも優しい家族に囲まれて暮らしている誰かになって家の様子をみんなに話していた。すべて妄想だったがその話をしている間は幸せだった。

心を壊せたら辛くなくなるのにと思うようになった。何年も悩んでいた。

そしていつからか何も思わなくなった。気づいた時にはそうなっていた。それからというものノートにはあまり書かなくなった。

大人になったのだと思った。誰にも期待しない。見返りも無償の愛も求めない。私自身だけは裏切らないようにしようと思った。

感情の波も穏やかになった。幼いころから喧嘩をしない子だったが、傷ついたり怒ったり落ち込んだりすることはよくあった。気づかれないように声を殺して泣くことが何度もあったはずだった。

しかし嫌だなと思いはすれど心臓に突き刺さるような痛みを感じなくなった。涙が出てもなぜ流れているのか感覚的にわからなくなり、辛いことがわからなくなった。

自分では気づかなくなったがストレスが体に出るようになった。蕁麻疹や白髪が生えてようやく何か嫌なことがあったんだと気づき、原因を探し対処する。

自分に起きたことを自分事として受け取れなくなり、常に第三者目線で見ているような感覚に陥るようになった。強くなったわけではないのだと思う。傷ついても気づかなくなっただけ。

いじめられていた時も親には頼らなかったし、正直いじめよりも家での生活のほうが辛かった。救いの手など差し伸べられなかった。

今の私は幸せである。家族仲は良く、友人も多く、学校もアルバイトも楽しい。

でも、定期的に思い出さなければならない。壊れてこうなったことを理解しなければ失敗してしまうかもしれない。

酒が人の本音を零させるなら私は、誘われた時以外は飲まない。人前で酔うことはしない。

意見を押し付ける大人にはなるまいと思っていたから今までもこれからも「自分はこう思う」という形を何があっても取り続ける。

私は愛されない。だからこそ私だけは私を好きでいたい。世界中に嫌われても不要だと言われても、私だけは私の味方でいたい。

私には価値があると自分に言い聞かせて何とか生きてきた。きっとこれからもそうだろう。

他者からの評価に重きを置いたりしない。私は私を愛する私に認められる私でありたい。そう生きれないならば価値がない。

私を歪めたものを特定することはできないが、壊したものは間違いなく親だろうと思うし、きっと間違ってはいないんだろうな。

それでも私は恵まれているのだろうと思う。それも忘れてはいけない。私は悲劇のヒロインではない。

何度も海外旅行に連れて行ってもらった。学費も生活費もすべて親に払ってもらっている。お小遣いも貰っているし、金銭的に苦労したことがない。酷く殴られたこともないし、育児放棄というわけでもなかったのだと思う。

ただ、幸せな穏やかな家族というには歪で、私の安心はここにはなかった。

両親と過ごしているここ数年は酒に狂う親にもほぼあっていないし、今そうなっても家を出ればよいだけだ。私の世界は広がった。

家がこんなに穏やかな場所になるなんてあの時からは想像もつかない。でもこの嘘のような日々に惑わされて忘れてはいけない。

苦しんだ日々を乗り越えて今がある。悩んだ過去の私の叫びを無視してはいけない。

私の苦しみを無かったことには出来ない。だから偶に「日記のようなもの」を読み返しては、幼い頃の私を慰めている。

よく書いた。お陰でそうはなるまいと何度も自分に言い聞かせられる。

私は今、幸せである。何度も言うが家族仲は良好で不満もない。

だから忘れたくなって、忘れそうになって、見たくないものから目をそらす都合の良い大人になりそうになってしまう。

人間の脳は嫌なことを忘れるようにできているのかもしれない。でも忘れてはならないから何度も繰り返し思い出して、壊れたはずの心が悲鳴をあげる。いつの間にか前が見えなくなっている。

これはいつかどうにかなるのだろうか。

親が子に酷いことをする作品が見れない。心臓に氷が刺さったような心臓を握り潰されるような痛みに襲われてしまう。映画も小説もゲームも。親が敵の作品を見ると怖くて怖くて、目と耳を塞いで蹲ってしまう。

克服するのは完全に忘れた時なのだろうな。覚えていて許すことはきっとないから。

私は自分が親になる姿を想像できない。恐ろしくてしたくない。親を悪魔と認識したあの日に私は親にはならないと決めたのである。

世の中には素敵な尊敬できる親が沢山いるのだろう。私の親も誰かから見れば良い親なのかもしれない。殴られないだけマシだろうと思う人もいるのかもしれない。

でも幼い頃の私が傷つき、壊れたことは間違いなく、今、親と良好な関係が築けて居たとて一生忘れることは無いのである。

親と子の健全な関係を今更築けたとしても壊れた物は元に戻らない。

酒に溺れる親が出てくる作品を、床に落ちた物を食べさせる大人が出てくる作品を、金で子供の機嫌を取ろうとする大人が出てくる作品を「見ること」すら出来なくなった。

私は読書が好きである。映画もオペラもミュージカルも好きである。

だがトラウマのせいでその大好きな趣味の幅すらも狭められてしまう。

数年前、新しく面白い映画が出たから見に行こうと誘われた。友人は一度見てとても面白かったからもう一度見るのだと嬉しそうにしていて、私も楽しみだと見る直前まで思っていた。

内容は良かった。良かったが酒に溺れる母や母が子供を洗脳するような描写が少しあっただけでスクリーンを見れなくなってしまった。怖くて怖くて、耳を塞いで下を向いて、席から立ち上がることも出来なくなってしまった。

心配したのであろう友人から膝をつつかれ、焦ってスクリーンを見上げるとそのシーンは終わっていて、その後は何とか見ることが出来た。が、心臓が早く大きく鼓動して、手や背中は汗で冷たく、鑑賞後も映画の感想を言える状態ではなかった。

これが一生続くのか。良い作品だったと思う。少し見れないところもあったが全体を通して伏線回収もしっかりとしていて、映像も綺麗で、魅せ方も美しく、完成された作品だったと思う。だがどうしても、あの描写があるだけで「もう二度と」観れなくなってしまった。

私は映画ならアクションとホラー、ミステリーが好きなのだが、ホラー映画を見て思うような「こわい」の次元を遥かに超える何かがある。

私の心臓の柔いところを無理やり握り潰して氷漬けにしたような、真っ直ぐ立って居られなくなるような思いがするんです。

この現象をなんと呼ぶのか私は知らないが、これは間違いなく壊されたからだろうと思う。

助けてくれ。今はこんなに上手くやれているのに偶にそれらに遭遇すると立っていられなくなる。上手くやれる大人になったはずなのに恐怖で動けなくなるのはどうしたら良いのだろうか。

私の呪縛は解けないのかもしれない。

世界中の親に伝えたい。

親である貴方自身が未完成であることを自覚して欲しい。

子供は親の所有物でも機嫌とるための玩具でもない事を理解して欲しい。

一人として独立した感情と考えを持っていること知って欲しい。

貴方の言動が子供にとって一生の傷になることを自覚して欲しい。

人は間違える生き物だから失敗もあるだろうが、その時は誤魔化さず子供に対して「独立した考えを持つ人間に対して」謝罪をして欲しい。

間違えたことを認めて謝罪をすれば、子供も理解しようと歩み寄るだろうし、関係に亀裂も入らなかろう。

当たり前に人に対してしていることを自分の子供に対してもやって欲しい。

その積み重ねが、子供の命と心を救うと思うので、どうかお願いします。

私は今、親と良好な関係を築いているが、それは私が壊れ、成長したからだと思う。

もし私が壊れなかったら上手くいかなかったかもしれない。恨みを抱き続けていたら良い関係を築けなかったと思う。

私は親を恨めなかった。されたことを思い返し続けられなかった。忘れては定期的に思い出す、そうやって生きてきた。忘れられなかったらきっと死んでいた。

親は子育てが下手だ。間違いない。親は私を愛しているのだろうと今ならわかる。

だが、私は愛されて育った自覚がないのだ。いくら愛されていようが、愛されていた自覚がなければ意味が無いのだ。

愛されているのだから許せ、と仮に言われたら私はきっと犯罪者になってしまう。きっと許せないだろう。

だから、誰かの親の皆様、これから親になる皆様には、愛情表現はわかりやすくはっきりと口と態度に出して欲しいとも伝えたい。

独自の表現方法で愛は伝わらないよ。誰から見てもわかるように口と態度に出さなければわからないよ。

そして愛は押し付けるものでは無いから、返ってこなくても怒ってはいけないよ。子供には自由がある。

親になったとしても貴方は未熟だよ。成人したから中身も大人になったとは限らないよ。

自分を見つめ直してくれ、自分と周りを大事にしてくれ。そうすればきっと幸せになれる。

世界中の子供たちに幸あれ。未来に夢を見れる環境であれ。

苦しんだ人が今、幸せに過ごしていることを願います。

これから苦しむ人が少しでも減ることを祈ります。

少し長くなってしまったけれど思いつくことは吐き出せたかな。

気持ちを落ち着けるためにも横になります。何故ここまで書いてしまったのか…後悔しないといいな。

でも書いておくことはとても大切だから。きっと良かったんだろう。今週のお題からズレている気もするが…良かろう。許される!

長々と失礼しました。今回はここまでにします。

良い夢が見れますように。おやすみなさい。

違和感のある言葉達

今晩は。寒い日が続きますね。こんな日はココアが飲みたい…。

さて、今回は七月頭に書いたレポートとも言えない謎文章を皆々様に共有します。

最近この手の投稿が多いのは卒業前にファイルに残るデータを整理しておきたいからです。暫く続くと思いますがご了承ください。

ではどうぞ!

私がこの文章を書こうと考えた理由は、就職活動中に人事の方々とやり取りしているメールの敬語に違和感を覚えたからである。

私の就職活動は先日漸く終わりを迎えたが、この長きに渡った就職活動で送受信したメールの数は二百件を優に超えるだろう。

毎日大量に送られてくるメールを死んだ目で流し読みしながら、違和感というか…表現が難しいのだが、文字が突っかかることが多々あったのである。

勿論、違和感のある言葉の全てが就職活動を通して出会ったという訳では無い。アルバイト先で当たり前に使われている接客用語にも日々違和感を抱いている。

そこで今回は、就職活動中に送られてきた違和感のある文章、就活生が送るメールの正解とされているが違和感のある文章、アルバイト先で接客中に使われている違和感のある言葉について述べる。

始めに、実際に私が就職活動中に触れた違和感のある敬語を二種類挙げる。

一つ目は採用担当者からのメールにあった「書類一式は、後日ご自宅にご郵送させていただきます。」という一文。

二つ目は就職活動生から担当者に宛てて送るメールの参考として乗っていた「面接のお時間を頂きまして、誠にありがたく思います。」という一文である。

私はこれらの文章は無駄に丁寧であり、不必要な語が含まれているように感じた。文法の誤りは無いのかもしれないが気持ちが悪い。

私が採用担当者の場合、一つ目の文章は「書類一式は、後日○○様の自宅に郵送致します。」と書き換える。

そして二つ目の文章は実際に「面接のお時間を頂きありがとうございました。」と書いて送信した。

次に、私の勤めているアルバイト先の書店で聞いたことがある違和感のある言葉を四種類挙げる。

一つ目が、会計後の「レシートを挟まさせて頂きます。」という言葉である。私は「挟まさせて」という言葉を口から発したくない為、「レシートを挟んでのお渡しです。」と言っているが、現在この「挟まさせて頂きます。」を使っているアルバイトは二人ほどいる。

二つ目が、支払いの際に使う「千円からお預かりします。」という言葉である。この「から」は何に掛かっているのか不明で使いたくないので「千円、お預かりします。」と言っている。私以外の店員全員が「〇円から」を使っていることも併せて述べておく。

三つ目が、お客様への確認をする際に使われる「〜でよろしかったでしょうか。」である。「よろしかった」の部分に過去形を使う意図が不明であり違和感がある為、「〜でお間違いないですか?」「〜でよろしいでしょうか?」という言葉を使っている。気付いた時には他の店員が使っている為、かなりの割合で使われていると考えられる。

四つ目は、「お返しの500円になります。」である。「なる」はどのような意味があるのかわからず、誤りだと感じている為、「500円のお返しです。」と私は言っている。しかし、「〜から」と同じく私以外全員が使っている為、接客用語として定着していると考えられる。

敬語について、文化審議会答申(2007.P5)には以下の記述がある。

敬語を用いれば,話し手が意図するか否かにかかわらず, その敬語の表現する人間関係が表現されることになり,逆に,敬語を用いなければ,用いたときとは異なる人間関係が表現されることになるということである。

文化審議会答申からもわかるように、言葉が相手との関係性に大きく影響を齎すものであると認識しているが故に、少しでも丁寧な言葉を使おうとする意識が働き、違和感のある敬語が増えているのではないかと考えた。
又、言葉は使っている間に慣れてしまい、表現に物足りなさを感じるようになることがある。

例を挙げるならば「めっちゃ」「めちゃめちゃ」「めっちゃめちゃ」があるが、始めは「めっちゃ」で足りていた表現も、慣れていくうちに表現として足りていないように感じてしまう。

この現象が敬語にも同じように起き、以前通りの言い回しでは丁寧さを感じられなくなり、言葉を重ねたり回りくどい言い回しになったりするのではないかと考えた。

私は違和感のある言葉が好きではない。しかし文学部での勉強をする中で、言葉が長い歴史の中で変化し続けてきたことを知った。

現在、違和感を覚える言葉達が数年後当たり前に使われ、数十年後には昔は正しかった言葉として残っている可能性を考えると一生、学び続けることが出来る面白い学問であるとも感じている。

好ましいとは思わなくとも、これからも変わりゆく言葉に寛容で在り続けたい。
 
【引用文献】
文化審議会答申(2007)『敬語の指針』p5

【参考文献】
井坂淳一(2016)『ここからはじまる日本語学』ひつじ書房
 

梶井基次郎『泥濘』

今晩は。突然ですが皆様は梶井基次郎をご存知でしょうか?彼は私の大好きな作家のうちの一人です。

「得体の知れない不吉な塊が私の心を終始抑えつけていた」で始まる、彼の代表作は『檸檬』。国語の授業で読んだことがある方も多いのではないでしょうか。

今回話すのは『檸檬』の前身と言われる『泥濘』という作品です。鬱々とした仄暗い感情を美しい文章で表現したこの作品に私は惚れ込んでいます。

そんな『泥濘』についてのレポートを発掘したので貼ろうと思いブログを書き始めた深夜3時…満足したら眠ろう。

多分大学一年生の頃に書いた、拙い、本当につたないものですが…手は加えず当時のまま貼り付けたいと思います。

ご理解頂ける方のみお読み下さい。

梶井基次郎 『泥濘』
「自分」の抱く複雑な感情に共感できるのは何故か

『泥濘』という作品は私にとって、同作家の別作品である『檸檬』と比べても、共感するところの多い作品である。何故、共感できるのかについて考察していきたい。

一つ目に、「自分」は「自分」の状態を消極的な言葉や否定的な言葉など多くの言葉を用いて表現することで想像しやすくなり、読者が自分に当て嵌めて読む事ができるからなのではないかと考えた。

やめた後の状態は果してわるかった。自分はぼんやりしてしまっていた。その不活溌な状態は平常経験するそれ以上にどこか変なところのある状態だった。花が枯れて水が腐ってしまっている花瓶が不愉快で堪たまらなくなっていても始末するのが億劫で手の出ないときがある。見るたびに不愉快が増して行ってもその不愉快がどうしても始末しようという気持に転じて行かないときがある。それは億劫というよりもなにかに魅せられている気持である。自分は自分の不活溌のどこかにそんな匂いを嗅いだ。

この段落では、ぼんやり、不活潑、不愉快、億劫という単語が立て続けて並んでいる。不愉快は三回、不活潑と億劫は二回使われている。この後も中途半端、何をする気にもならない、自分の動かない気持ちなど、受動的でネガティブな言葉が頻出する。

一つの言葉で表現するのではなく、幾つかの似たような言葉を重ねて使うことで状況を想像しやすく、共感できるようにしているのではないかと考えた。

二つ目に、ぼんやりとした「自分」の状況をはっきりと自分自身が理解していないということを曖昧な文末で表しており、読者の認識と「自分」の認識のずれを減らしているからなのではないかと考えた。

自分は話をしているうちに友人の顔が変に遠どおしく感ぜられて来た。また自分の話が自分の思う甲所をちっとも言っていないように思えてきた。相手が何かいつもの友人ではないような気にもなる。相手は自分の少し変なことを感じているに違いないとも思う。不親切ではないがそのことを言うのが彼自身怖おそろしいので言えずにいるのじゃないかなど思う。しかし、自分はどこか変じゃないか? などこちらから聞けない気がした。「そう言えば変だ」など言われる怖ろしさよりも、変じゃないかと自分から言ってしまえば自分で自分の変な所を承認したことになる。承認してしまえばなにもかもおしまいだ。そんな怖ろしさがあったのだった。そんなことを思いながらしかし自分の口は喋っているのだった。

この段落では、感ぜられて来た、思えてきた、気にもなる、違いないとも思う、じゃないかなと思う、気がした、と曖昧な表現を繰り返している。最後には自分の考えと口の動きは一致していないかのような表現をしており、自分の事を自分の事と認識できていないようだと感じた。
ここで読者は「自分」が自分自身についてもよく理解していないことを、「ぼんやり」のような単語としてだけではなく、考え方からも認識することが出来るのではないかと思った。

三つ目に、「自分」の陥っている思想に読者も身を置いたことがあるからなのではないかと考えた。

ちょうどその時分は火事の多い時節であった。習慣で自分はよく近くの野原を散歩する。新しい家の普請が到るところにあった。自分はその辺りに転っている鉋屑かんなくずを見、そして自分があまり注意もせずに煙草の吸殻を捨てるのに気がつき、危いぞと思った。そんなことが頭に残っていたからであろう、近くに二度ほど火事があった、そのたびに漠とした、捕縛されそうな不安に襲われた。「この辺を散歩していたろう」と言われ、「お前の捨てた煙草からだ」と言われたら、なんとも抗弁する余地がないような気がした。また電報配達夫の走っているのを見ると不愉快になった。妄想は自分を弱くみじめにした。愚にもつかないことで本当に弱くみじめになってゆく。そう思うと堪らない気がした。

「自分」にとって嫌な事が立て続いて起き、その事実を上手く割り切ることが出来ず、ぼんやりとした状態が続いてしまってる状態を作者はとても上手く描いていると感じた。文中に用いられる比喩表現や「自分」の妄想からも、不安定な感情がよく読み取れる。
実際に、自分に自信がなくなってしまった時は周りに対しての信頼も失い、全てが敵に見えることがある。読者自身がそのような経験があるからこそ「自分」に共感できるのではないかと考えた。

ゆっくりと始まり、画面が引いていくように終わる『泥濘』という作品は『泥濘』という題に相応しく、全体的に、暗く重たい印象を受ける。

読者にも共感できる内容を、「自分」が他人事のように表現し、その表現が現実を見ていない「自分」の様子を浮き彫りにして違和感を産んでいるのではないかと思った。

その違和感が作品全体を包む、抜け出せないぬかるみのような雰囲気に合っていて、題名を見てから読み始める読者の読み方の方向性を定めているようにも感じられた。

以上のことから、一つの単語で断定せず多くの言葉を使うこと、曖昧な文末で表現すること、自らの体験と重ねやすい状況を書くこと、の三つが「自分」の複雑な感情を読者にとって親しみやすく共感しやすいものにしているのだと考えた。

 

と、数年前の私が書いています。つ、拙い…と恥ずかしくなるのですが、私が成長したからそう感じるのかなと思うと許せなくもないです。

正直レポートとは言えないですね、読書感想文だな笑

今も変わらず『泥濘』は大好きなので。ぜひ皆様にも一度読んで頂きたいです。

重たくのしかかる、上手く扱えない無気力と倦怠感、どうせ上手くいかないと自分を奮い立たせることも出来ない鬱々とした気持ちを上手く表現していて、共感するところが多いのです。

本当におすすめなので是非!このブログを読んで興味を持ってくださる方がいるといいなぁと思います。

『泥濘』は余り知られていない作品なので、泥濘だけを手に入れることは難しいと思います。

もし読みたくなった方が居たら『東京百年物語 2』をお求め下さい。詳細は以下の通りです。

『東京百年物語 2』ISBN:9784003121726

目次↓

Ⅰ 東京の虚実――世界都市への野心
 普請中 …森鷗外
 人面疽 …谷崎潤一郎
 両国・立秋の日・築地の渡し 並序 … 木下杢太郎
 東京の公園 … 田村俊子
 魔 術 …芥川竜之介
 小僧の神様志賀直哉

Ⅱ 東京スナップ――モダニズムの夢
 招魂祭一景 … 川端康成
 公園小品 …室生犀星
 滅びたる東京 …佐藤春夫
 泥 濘 …梶井基次郎
 押絵と旅する男江戸川乱歩

Ⅲ 東京の陰翳――発展と孤立
 雨の降る品川駅 … 中野重治
 水族館 … 堀 辰雄
 M百貨店 … 伊藤 整
 恐ろしい東京 … 夢野久作
 除夜の鐘・正午 …中原中也
 鮨 … 岡本かの子

最高です。面白い作品しか入っていません。一冊でこんなに楽しめるなんて夢のようではないですか。

特にオススメなのは江戸川乱歩の『押絵と旅する男』です。きっと『泥濘』が好きな人は好きかな?世界観が素晴らしい。歪んだ世界へようこそ。

これを書いたら寝ようと思っていたけれど、少しだけ読んでからにしようかな。

珈琲にミルクを入れてカフェオレにしよう。毛布にくるまりながら短編集を少しだけ読もう。眠くなったらそのまま寝てしまおう。きっと良い夜になる。

こんな秋の夜を幸せだと思える感性で良かった。

早速、珈琲をいれに行かねば…今回はここまで。

読んで下さりありがとうございました。

皆様も素敵な秋の夜をお過ごし下さい。

 

美術鑑賞

今晩は。数年前に美術館に行った際に書いていたメモが発掘されたのでそのまま貼ります。

ヤン・ファン・ホイエン「マース河口」

国立西洋美術館の常設展を見学し、ヤン・ファン・ホイエンによって1644年に描かれた、 マース河口(ドルトレヒト)という作品に興味を持った。
この作品は48,5×76cmの板に油絵の具で描かれており、色合いも目立つ作品ではないが自然と目が惹き付けられた。
ヤン・ファン・ホイエンはオランダの画家で、この絵画もオランダのマース川河口から海を眺める立ち位置からドルトレヒトの街が描かれている。
淡い色調で雲や水面の絶妙な光の描写がしており、美しくも、切ない表現になっているように感じた。
又、この作品が描かれた17世紀のオランダは黄金時代と言われておりとても栄えていたそうだが、この作品から時代の華々しさは感じなかった。
1630年代には淡色風景画、1640年代から晩年にかけては明暗のはっきりした風景画を描くようになっと言われているそうだが1644年に描かれたこの作品は淡い色で描かれており、傾向であって全ての絵ががそうではないのだということも解った。
国立西洋美術館の常設展は松方コレクションを主体にロダンやフランス近代彫刻を取り入れた西洋美術作品を展示している。時代順に作品が並べられており美術史を学ぶことに適していると思った。

 歌川広重「月下桃花に燕」

 東京国立博物館の本館の常設展を見学した。月下桃花に燕 という天保3年~6年に刷られた歌川広重の錦絵が特に良かった。
38.7×17.7cmの紙本木版多色刷りの作品で二羽の燕と桃が色鮮やかで強く印象に残った。
細かく描かれている翼から燕の激しい羽ばたきが分かり、羽ばたく二羽の燕と静かに咲く桃がお互いを引きたてているように感じた。
燕と桃の両方に赤い色を使うことで画面にまとまりが出ているようにも思った。
燕と桃の後ろには青い空と白い月が浮かんでおり、画面の彩りを豊かにしているようにも思う。又、幅を広めに青をぼかしていて朝の月のようだと思った。
歌川広重は歌川豊広に絵を学んだだけではなく、狩野風、南宗画、四条流も学んでいたそうで、絵画に対する意識がとても高かったのだと思う。

生涯作品は2万点以上と言われていることからも、芸術への強い思いを感じることが出来る。
歌川広重の作品は海外からの評価も高く、よく使っていた紺青色はヒロシゲブルーと呼ばれているそうで、やはり青の使い方がとても上手なのだと思った。
私はヴィンセント・ヴァン・ゴッホクロード・モネが大好きだが、二人の偉大な画家に影響を与えた歌川広重のことも好きにならざるを得ないと思った。
東京国立博物館の本館は縄文時代から江戸時代までの日本の美術品が展示されている。時代順、分類別に部屋を分けて展示されており、とても見やすいと思った。

日本美術と西洋美術を比較して考えたこと

西洋の絵画と日本の絵画では線の持つ意味が違うのではないかと考えた。

西洋絵画でははっきりとした線は下書きに使うのみで上から色を塗って消しているが、日本絵画では線を引き立てるように色を塗っていた。

西洋絵画から重たい印象を感じるのに対して日本絵画はさっぱりとした印象を受けた。
又、画面の使い方が違うと感じた。キャンバスの全体を使って均等に描かれた西洋絵画に対し、日本絵画は画面を区切って視点を当てているものをわかりやすく目立たせるように描いているように思う。
色の塗られていない部分が日本絵画にはあるが西洋絵画には無い。これは作品に対する意識の違いという訳ではなく美的感覚の違いなのではないかと考える。
画面の使い方や線に対する感じ方が違うこと、西洋の美的感覚と日本の美的感覚には大きな違いがあることがよくわかった。

今週のお題「今月の目標」

今晩は。少し間が空きましたが元気に過ごしています。

今回も今週のお題に乗っかって何か書こうかなと思います。

今月の目標は…卒論の資料集めをして下書きを完成させることと免許の申し込みをすることです。

流石にやらないとまずいのですが気持ちが乗らなくて…他にもいろいろやることはあるのですが…とにかくこのふたつはやらねば。

あぁ〜ねむい〜なんもしたくない〜…毎日推しの配信見てお菓子食べて好きな本を読んで好きなだけ寝てぼーっとしていたいよお。

ねむたい。

口に出すことで実行できる。今書いたからきっと今日起きた時から頑張れる…ねむい…ねよう…おやすみなさい。

今晩は。大学四年の後期がもうすぐ始まります。

大学生でいられるのも残り僅か。限られた時間の中で楽しくのんびりと過ごせたらいいなと思っています。

さて今回は、大学一年生の頃、授業で作った詩を発掘したので貼り付けようと思います。

出来の悪いレポートも貼っているし、詩くらいどうってことないかなって……まずいかな(一抹の不安)

一般的にこの手の物は黒歴史になるので公開しない方が良いとされているのですが、私は卒業アルバムや文集、日記を読んで「この時の私、中々やるな」とニタニタするタイプなので、詩がいくら痛くてもダメージは少ないと信じています。

現在の私は二年半前の私が書いた詩を見て「あー……」くらいなのですが、数十年後、羞恥で死にそうになったら消します。ご了承ください。

因みに、この詩は授業の課題として出されたもので、縛りがあります。

縛りは「自分で決めたテーマの漢字(言葉)を分解する」ことです。

例えば森という漢字がテーマならば、木という漢字を3回使うとか、木が三つだな、的なことを言うとか、木偏の漢字を使うとか?(伝われ)

つまり、選ぶ言葉(テーマ)が重要になります 。

そして、完成した詩は集められた後、クラスメイトにランダム配布され、作者の名前を伏せて、皆の前で朗読されるという…恥ずかしがり屋には耐えられない授業です。

この授業は無音の映像から物語を作りなさい等、個性的な課題が多く面白かったのですが、この「詩を作りなさい」の回は悲鳴が上がりました笑

大学一年生の私が、人前で読まれても恥ずかしくないものにしよう、と必死に頭を悩ませた結果出来上がったのがこちら!

ばーん。

f:id:ama_gasa:20210919043701j:image

ぎりぎり恥ずかしくない(と当時の私が思い)、悩んだ末に作った詩なのですが如何でしょうか。

読者の皆様の反応も気になりますが、何よりも三十年後の私の感想が気になります。

「うわ〜、懐かしい」とニタニタするくらいで済むはずなのですが、どうでしょう。悶絶していたらごめんなさい。そっと消して下さい。

ネットの海に流してしまった以上、完全に消えることは無いでしょうが……無名ブログなので謎の拡散はされないと信じています。

詩の解説ほど虚しいものは無いと思うので詳しくはしませんが、テーマはご覧の通り「明日」で、明日を分解したということになります。

縛りも無事にクリアし、提出、そしてクラスメイトに音読され、先生に一言貰い、回収されました。

レポート3000文字書くのと詩を書くの、労力的にはとんとん…発表しないならいくらでも書けるんですけれどね…人前で読まれるとなると恥ずかしいこと書けないし…そもそもポエマーじゃないし…二度と受けない、この授業。(尚、選択必修)

日本文学科の洗礼だったのかもしれません。

クラスメイトの詩の感想を言うならば、こだわっている人といない人の差がとても激しかった、です。

ものすごく作りこんで世界観を大切にしている詩を作った人も居れば、恥ずかしさからなのかとても適当に作っている人もいて、朗読されるのを聴きながら、これは誰のだろう?と想像が膨らみました。

友人間でも内緒にしていたので、性格的にこれかな?とかドキドキしましたね。とても楽しかったです。

ひとつ言えるのは、恋愛ものはやめた方がいいということです。羞恥で死にそうになっている子がいました笑 朗読されるって分かってたのに!事故ですね。

二度と取りたくないけれど、印象に残っている授業の一つです。

公開するか否かは別にしても詩を作るのはとても楽しいので、言葉を分解して書く詩、皆様も考えて見ては如何でしょうか。

以前ブログにも書きましたが、お題はいくらでも出しますよ!

今回はここまでにしようかな。長く話しすぎると未来の私が絶望するかもしれませんしね笑

1600文字、珍しくスッキリ終わることが出来そうです。

多分、黒歴史回、読んでくださりありがとうございました。また読みに来てくださいな。

それでは良い夢を。

万引き犯の腕をへし折りたい

今晩は。過ごしやすい日が続いていますが、皆様如何お過ごしでしょうか。

今日のように涼しい日は布団にくるまりながら読書をするのがおすすめです。

因みに私は積んである本を五冊ほど読み、今日は良い日だったなぁとしみじみ…そして腕が疲れてきたので息抜きにブログを書き始めました。

お題は特に思いつかなかったので今週のお題を借りようと思います。

今週のお題「爆発」

爆発……ばくはつ……バクハツ……爆発とは無縁の生活を送っているのでパッと思いつく事が何もありません。

強いて言うならば、先日とても強い憤りを感じまして、それが一番近いかなぁ?爆発はしてないんですけれどね。

私は人と喧嘩をしたことがないんです。意見をぶつけ合うことはあれど感情を爆発させることがありません。

幼稚園から一緒の友人とすら喧嘩をしたことがないという事実からも内側に留めておく性格だということがわかって頂けるかと思います。

そんな私ですが先日、強い怒りを覚えた出来事があったので、その怒りを感情の爆発と捉えお話をしたいと思います。

皆様ご存知の通り私は書店員として働いていて、結論から言いますとこの怒りは勤務中に現れた万引き犯に向けたものです。

私がレジで作業をしている時に万引き犯は来店し人気な漫画を数冊手に持ち30分程店内をうろついていました。

行動に怪しさを感じた為、私は万引き犯にカゴを手渡しました。(カゴを持っていると監視カメラで探す時にわかり易い)

カゴに本を投げ込み続ける万引き犯。15分ほど店内をうろついた後、万引き犯は死角に隠れ鞄を開け始めました。

その時、私はレジで監視カメラの映像をチラチラと確認しながら接客中。

鞄を開け始めた事を監視カメラで確認した瞬間に、やられる!!!と思い「レジお願いします!!!」と叫び声を上げながら店内を全力で走りました。

すみません!と叫びながらお客様を避け、万引き犯の元へ駆けつけた時、万引き犯はカゴから漫画を五冊ほどつかみ鞄に入れる瞬間でした。

万引き犯の目の前で急停止し睨みつけると奴は手の行き場を失い、本をカゴの中に戻しました。

怒り(殺意)なのでしょうか。ふつふつとした熱い何かが身体中を駆け巡り、鞄に本を突っ込もうとするその腕をへし折ってやりたいと思いました。

勿論やらないのですが私に力があれば、と。

以前、万引きを目撃した店員が万引き犯に指摘をしたところ襟首を掴まれて本棚に叩き付けられ怪我をしたということがあり、当店では万引き犯を確認したら刺激をせず通報という流れになりました。

(ちなみにその時は店員を本棚に叩きつけ、倒れた隙に万引き犯が逃走。屈強な警備員さん達により取り押さえられ強盗未遂で逮捕されました。)

店員の身の安全が第一だから通報して間に合わなければ諦めるしかないと。

わかるんです。身の安全はとても大事なことですよね。凶器を持っているかもしれないですし、万引き犯の大多数が男性なので力の面でどう足掻いても勝てません。でも、でも!本が盗まれるのを黙って見ていられない!

本当に書店は苦しんでいるんです。

もしご存知でない方がいたらお伝えしたいのですが本を売って手に入る利益というのはとてもとてもとても少ないのです。

なので本を安売りはできません。本屋で本のセールを見たことがないと思うのですがそれは利率の低さが理由なんです。セールなんてしたら潰れてしまいます。

安売りすら出来ないのに……万引きをされると本当に潰れしまうんです。それをわかっているから、もし見つけてもすぐには捕まえられない事が本当に辛くて。

幼い頃から本が好きで、本に支えられて成長し、大学では日本文学科に通い、大学生になり始めたアルバイトでは迷わず本屋を選びました。

アルバイトごときが何を?と思うかもしれないのですが本当に。本と共に生きてきたと思っているんです。

この憤りをどうすれば良いのでしょうね。

毎月毎月、何冊も取られている。毎月何万円分も被害にあっている。

当店はついこの間、何とかコロナ前の売上に戻すことが出来たけれど取られていたらどうしようもないし、このコロナ禍でライバルの書店をひとつ失っていて元々その書店に来ていたお客様が当店にも来ていることは明白。

他店の売上が入ってきている筈なのにようやく元の売上に戻ったんですよ。

こんなにカツカツなのに……これ以上書店を苦しめるのをやめてくれ。悔しくて仕方がない。

もし、本が読みたいけれどお金が無いのなら図書館に行ってください。

もし、お金が無いのなら働いて下さい。当店は今、アルバイトを募集していますよ。

本屋は薄給です。ギリギリでやっているのだから当然ですが当店の時給はこの地域の最低賃金ですし交通費は出ないです。

コロナで売上が落ち込んだ時は人が雇えなくなってたった二人でお店を回す羽目になり、本当に大変でした。

お客様対応中に電話が鳴ったら終わりです笑

本屋は買い物をしなくても入れるので暇潰しに来たクレーマーやストーカー、万引き犯に盗撮犯、お子様を放置して買い物に行く親と取り残されて泣くお子様、謎の嫌がらせをしてくる奴に不審電話etc...多種多様な人と関わることになります。

それらに対応しながらレジを打ち、本を棚に出し、本の相談に乗り、プレゼント包装をし、掃除をし、返品作業をし、(略)ます。

給料が安くて立ちっぱなし(結構走る)で万引きが多発し汚客様も多いのに本屋のアルバイトを続けるのは本が大好きだからです。

(勿論、楽しいことも沢山ありますよ!本が好きな方には書店バイトおすすめです!)

もし万引きが減れば当店も潤うのに。万引きが減れば万引き対策用に人が雇えるのに。

分かってるんですよ。万引き犯は本を読むために万引きをしている訳じゃないんですよね。転売して儲けるために万引きしているんですよね。

本が読みたいなら借りればいいし最悪立ち読みすればいいのに鞄に入れて持って帰るんだもの。手っ取り早く稼げるからやってるんですもんね?

何かを手に入れるには対価が必要で当店の本が欲しいならお金が必要なんですよ。

対価を払わずしてどうして手に入れられよう?犯罪だとわかった上でやっているのだろうけれど恥ずかしくないのだろうか。

毎月毎月やってきて、未然に防いでいるのも沢山あるけれどそれでもやられてしまうことはあって。いくら気を付けてもどうにもならない。おかしくなりそう。

結局、先日来た万引き犯はカゴに入れた漫画たちを購入していきました。

10分以上粘っていたので余程買いたくなかったのでしょうが……絶対買わせるという決意の元、牧羊犬の如く追いかけ回しました。

一定の距離を開けて睨み付けながらいらっしゃいませを連呼し続けました。

いらっしゃいませbotと化した私は30秒に1回くらいのペースで後ろから言い続けていたので相当鬱陶しかったと思います。

こんなに気をつけていても無くならないんだよなぁ。私がいる日は本当に気をつけているので滅多に万引きが起きないのですが、まだ不慣れな人がシフトの日は防犯も難しいですしね。

そもそも、書店員は本を売るためにいるのに、なんで万引き犯のことを考えねばならんのだ。おかしすぎる。

もしこのブログを読んで店員を責めそうになった人は胸に手を当ててどちらが悪いのかよく考えてみてくださいね。

(間違いなく万引き犯が悪いです。)

あぁ、万引き犯の腕をへし折りたい。

へし折るのは無理でもこっちには広辞苑という鈍器がある!舐めるな!!!!

暴力での解決を良しと思っていないので実際にしようとは思わないですし、腕力的にも店員としても出来ないのですが……脳内でボコボコにするくらいは許されるでしょう。

身体中を巡る燃えたぎるような怒りを文字に乗せて世界に発信するのだ。

本を愛する皆様が、本屋を愛する皆様が、共に怒ってくれたら。この悲しい現実を知っていてくれたら、少しだけ万引き犯もやりにくくなるのかな、と。

書店員もできることはします。しています。それでもどうにもならないから、この場を借りて皆様にお願いをさせて下さい。

もし万引き犯を見つけたら書店員にお声がけ下さい。

どうか、どうか、どうか御協力よろしくお願いいたします。

 

今回はここまで。おまけに過去の私のツイートを貼っておきます。

ブログよりも荒ぶっているので気持ちが伝わりやすいかなと思います。(オススメはしませんが)見たい人は見てください。

※のんびり書いていた影響で、今週のお題が変わり先週のお題になってしまいました。気にする方がいたらすみません💦

 

五月↓

助けて下さい。本屋を助けて下さい。

今月の万引き被害額が既に4万円を超えてます。助けて下さい。店が悪い?防犯意識が足りない?ねぇ、本を取らないで。なんで何冊も何冊も本を取るの?ゴールデンウィーク暇だった?どこにも行けなくて暇だった?万引きして楽しい?スリリング?

転売して楽しい?儲かって嬉しい?犯罪をして得た金で何をしてるのか知らないけど恥ずかしくないの?本当に、本当に、なんなんだろう。

いくら頑張ってPOPを書いても、売上を伸ばそうとペーパーの配布を増やしたり、書店ならではのイベントをやったり、電子書籍や通販に負けないようにってみんなで考えて色々やっても万引きされたらどうにもなんないよ。

なんで万引きするの?本屋を潰したい?本当に無理。罪の意識はないの?恥ずかしくないの?なんで?もう本当に。前に私が本屋を助けてってツイートして、本屋で本を買ったよ!とか言ってくれる人がいて嬉しかったのに。

態々、この状況でも本屋を支えようと本を買ってくれているお客様たちに謝って欲しい。
もうほんとに申し訳ない気持ちでいっぱい。本屋たすけてって、紙の本を買ってくれって言いたいけど、万引きがこんなに多くてほんとに嫌だ。

昨日、当店の床に大量のジュースを零して退店された方。罪の意識はありませんか?
本ってそんなにどうでもいいものなのかな。
店中にできたジュースの水たまりを雑巾で拭き続ける気持ちがわかるだろうか。
本にかかったらもう売れないのに。

あまりにも本が大切にされなくて悲しくなってしまった。本ってそんなにどうでもいいものなのかなぁ。本屋ってそんなに下に見られるものなのかなぁ。

私は何にも変え難い宝物を売ってると思ってるけどな。

私は万引き犯に怒鳴られる為でも、床にこぼれたジュースを拭き続けるためでもなくて、本が欲しい人に、本が好きな人に、本が渡る手伝いをする為に働いてるんだけどな。ストレスを本にぶつけないで。

七月↓

一日で100冊近く本が万引されました。被害額約6万円。

犯罪行為だぞ、恥ずかしくないのか。
手当り次第、本を鞄に突っ込んで、恥を知れ。

今すぐ返しに来い。許せない。良心の呵責は無いのか?感性を疑う。

発覚したのが今日。被害があった日はとても混んでいた。店員も疲れ果てていてそこまで気が回らなかったのだろう。

店員の質を疑う人もいるだろうが、私はその日働いていた店員を責める気はない。

本来、書店員とは本を売る仕事をしている人であり、万引き対策をする人では無いので。

先日↓

店内の隅で万引きしようとした奴を未遂で抑えた上、買わせました。

完全にやる気でした。リュックを開けて入れる直前に止めました。

一生許さん。二度とその顔を見せるな。

お会計中のお客様には大変ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。突然店員がレジから走り去りさぞ驚いたことと思います。本を選んでいたお客様も店内を走り抜ける店員を見て驚いた事でしょう。

その場でお詫びはしましたが、ここでもう一度お詫びさせていただきます。

本をお求めになったお客様方の本と向き合う素敵な時間を害してしまっていたら本当に申し訳ないです。

書店員が店内を凄い勢いで走り抜けるとき、その先に万引き犯がいる可能性があります。
もし突然凄い形相でどこかに向かう書店員がいたらクレームは後で伝えて下さると嬉しいです。一刻を争うので。

店内を走るな!とのお叱りを受けたこともあるのですが…万引きは現行犯でしか捕まえられないので書店員は本気で走っております。
どうかご理解の程よろしくお願いします。

 

書店員関係のブログ↓